自分の居場所って、『居るのはつらいよ:ケアとセラピーの覚書』を読んで
気になって読み始めた
『居るのはつらいよ:ケアとセラピーの覚書』
がなかなか考えさせられた。
著者の東畑開戸さんは京都大学でセラピーについて博士まで研究された方。
そんな方が沖縄の精神科クリニックでの就労の中で直面してきたものに、自身の揺れ動く心情をまとめた一冊。
畑違いの僕が一冊読み切るのには、かなり時間がかかった。考えさせられる場面が多すぎたからかもしれない。単に深く考えすぎたからかもしれないが。
それほど人間の、その「心」についての文章は
、不明瞭なものに少しずつあかりを灯しながら、しかも少し怖気付きながら読み進めるしかなかった。
内容のほとんどは、クリニックで"事件"を起こした患者さんにフォーカスして、その言動とその人の心のあり方を、東畑さんが考察していく。
その考察も順を追って見せてくれるところが東畑さん自身の葛藤や変化が伺える。そして、まるまるがフィクションではなく、リアルなのがたまに生々しかったりする。
リアルな心情を覗き込む感覚は、なんとも言えない。
この本の中で「居場所」について語られていることが、何度も頭に残って離れなかった。
この時の僕の中ではまだ、明確な答えが見つけられていないから、特に印象深く感じたのだろう。
そして、この下書きの存在を忘れ、3ヶ月。
ただ、脳内に残った「居場所」という言葉を考え続ける時間だったこともあってか、自分なりの答えが見つかった。
現時点での「居場所」の答え①
僕の現時点の答えの1つ目
「居場所」という言葉には、特定の「場所」を限定する意味はない。
だとしても、行きつけのお店や気分が落ち着く環境などは、すぐに思い当たるものが頭に浮かぶだろう。
それじゃあ、自分の中では決まった特定の「場所」じゃないか、と。
では、まずは、自分と特定の「場所」についてだ。
そのような「場所」というのは、
外と自分との距離感が妙に心地よいとか、
新しいものへ手を出すより安定した結果(落ち着きや満足感)が望めるとわかっているとか、
結局のところは、自分の心の都合であって、向こうから何をされたからではない。
そうなると、特定の「場所」によって足を運ばされたのではなく、自分の無意識な部分によって足を運んだのである。
つまり、「居場所」は「自分の心次第」だということだ。
次は、他人との間にある「居場所」についてだ。
おそらく「居場所」がないと悩む人の原因のほとんどが、対人関係からくるものだろう。
当の僕自身も対人関係で休学せざるを得ないところまで、心がすり減ってしまっていた。
対人関係の良し悪しは、生活の良し悪しに影響を及ぼす大きな要因の1つだろう。
この当時の僕は、ひどく他人に振り回される日々を送っていた。
理解してもらえない、意思疎通が出来ない、自分の好意を受け入れてくれない、自分の思うようにいかない…
自分と他人との間にある「居場所」を完全に誤解してたことから生じたズレは、解消されることもなく積み重なって限界を迎えた。
では、いったい何を誤解していたのか。
現時点での「居場所」の答え②
答えの2つ目は、
自分の「居場所」は相手の「心」にあってこそということだ。
もっと砕いて言うと、他人が自分のことを思い出してくれる瞬間のことだろうか。
その瞬間があったからこそ、食事や外出に誘いあったり、時間を共有出来ることに繋がる。
そもそもその瞬間さえなければ、その後の交流もなにも生まれてくることはないからだ。
しかし、この答えには注意点がある。
むやみやたらに誰かを利用しようとする人がこの世の中に存在する。
そして、そんなヤツらは他人に自分の「居場所」を無理矢理作ろうとしている。
「居場所」が相手の心の中、そしてその相手が思い出す瞬間というのは、自分とのタイムラグがあってなおかつ具現化されないものだということ。
そんないつかもわからない、目にも見えない不確かなものを手に入れたくてしょうがないのがヤツらにあたる。
そして、最悪なことに、やりすぎな干渉や他人を振り回すことで実感を得ようと焦るのだ。
これが対人関係のズレの原因でもある。しかも、このズレの摩擦はする側だけでなくされる側にも蓄積するように影響していくところだ。
今現状のつながりも大切だろうが、もっと大切なのは今後思い出してもらえるようにじっくりと対人関係を熟させることだろう。
ただし、甘え上手と、依存や悪用との線引きが非常に難しいと、僕個人は思っている。
まとめ
人間の心は語りきれない。
心理学に関する書籍が一般向けに増えてきたからと言っても、世の中には様々な人間がいる。
だから、せめて自分は焦らずゆっくりと関係を築いていこうという気持ちを持つことが大切だろう。
ゆくゆくは、自分の心の中と、誰かの心の中に「ありのままの僕」が居られるようにしていきたい。