タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

帰ってきたのか、やってきたのか

終わってみれば、なんだかあっという間に過ぎたように感じる休学期間。

僕は、念願の復学を果たし、また改めて学校に通う日々が始まった。

 

休学中にお世話になったバイト先や、働き出した友人と会えたことや、話を聴いてくれた先生と過ごした故郷は、もう僕の帰る場所になっている。

 

なら、今居るココは、「帰ってきたのか、やってきたのか」わからなくなってしまった。

 

学校や土地は変わらずあるのに、共に過ごした同級生たちとの生活は味わうことはできない。

 

みな、次の場所へ行ってしまったから。

 

ここには僕の「居場所」はないのかもしれない。

 

同じ場所なのに、違う所へとやってきたみたいな、浦島太郎の気持ちが今なら分かる気がする。

 

居場所がないのなら、ここには「やってきた」のが正しいかもしれない。

 

この認識がうまくいかないと、浦島太郎のように玉手箱を開けてしまう結末を自らの手で選んでしまうことになる。

 

加えて、この感覚は休学直後にもあった。

 

人間関係に疲れ、逃げ帰ったはずの故郷には、今と同じように僕には居場所がなかった。

 

長く住んできた故郷のはずなのに、「やってきた」感覚が僕を包み込んでいた。

 

帰ってすぐの僕は居場所を見つけることにすごく必死になっていた。

 

あてもなく散歩したり、コーヒーをお代わりして喫茶店に長居してみたり、同じ時間にコンビニに現れてみたり。

 

今思えば、無理矢理にでも、故郷に「帰ってきた」感覚を欲しがってたように感じる。

 

それは「居場所」を見つけることと同じような意味を持つと、言えてしまう。

 

なら、僕にとって「帰ってきた」と思うことを許してくれる「居場所」とは、いったい何なのか。

 

そもそも「居場所」には2つ種類があると、気づいた。

 

1つ目が、大きく変化することがない建物や土地、その場の空気感があり続けるもの。

 

思い出に浸ったり、時間の流れを感じさせないことに、自分がこれまでそこに居たことを思い出させてくれる場所だろうか。

 

近所の公園やスーパー、通い慣れた通学路とか。小さな変化の発見はあったとしても、変わらずそこにあって、僕が居たことを肯定してくれるようなもの。

 

2つ目が、僕のことを認知してくれる人がそこにいるっていうこと。

 

幼なじみ、同級生、バイト先、出会った場所や年代はどこだっていい。僕の名前、容姿、雰囲気など。僕を僕だと知っている人がいることによる安心感が生まれるもの。

 

僕も、浦島太郎も欲している「居場所」は断然2つ目だろう。

 

自分が居たことを思い出させてくれる「居場所」があったとしても、過去の自分を見ることしか出来ない。

 

どんなに変わることがない場所で愛着を持っていたとしても、あくまでも通過点の1つにすぎない。

 

人間は立ち止まってばかりじゃいられない。

 

逆らえない時間の流れに沿って、歳をとらないといけない。

 

そんな進みゆく自分も、あまたの通過点もひっくるめて認知してくれる人が居ることが、心にとって必要な「居場所」ではないだろうか。

 

今、復学した僕がすべきことがはっきりしてきたじゃないか。

 

ここで共に過ごす人たちに、僕を知ってもらうしかない。覚えてもらって、認めてもらって、受け入れてもらうしかない。

 

また新しくココに「帰ってこれる居場所」を見つけていくしかないじゃないか。