心にブレーキがかかるのは いいやつをやめたい編
「みんなと仲良くしましょう」
物心つく頃、どうしてなのか周りの大人たちは口をそろえて求めてきていた。そして、
「みんなと仲良くしています」と記してある通信簿を見る親は、誇らしさをこぼしながら僕を褒めてくれた。この年齢になると、その記憶自体は曖昧なものなっているのだが、褒められること、つまりは「人として良い振る舞い」なのだと盲信的になっていた。
同じようなことで「人のせいにしない」というのも、僕の振る舞いをカタチづくる盲信的なものだ。相手が嫌がることをしているかもしれない。相手を怒らすことを言っているかもしれない。誰かを介して直面する心地の悪い状況に対して、まずは自分が悪者かもしれないと考えることを幼いころから求めれていた気がする。
これらを疑うこともせずに愚直に「人として良い振る舞い」だと信じ切って、意識することも忘れてしまうほど僕の生き様になっていた。これまで関わってきた人たちもこんなを見続けて呆れながらも「ほんとにいいやつ」と声を掛けられることに満足していた。
振る舞いを矯正する大人たち、呆れながら認めてくれる人たち、今はそんな人たちが周りに居ない環境だからこそ、考え始めたことがある。
「どうしてこんなにも自己犠牲な生き方で、いいやつなんて言われてたのだろう」
新しい環境に入り込む機会がこれまで何度もあった。そして、一度だけ新しく足を踏み入れた時から「いいやつをやめてみよう」と振舞っていた。自分に与えられたり求められる役目を済ませれば、そこから立ち去る。必要最低限なことは話さないし、聞いたりもしない。余計なものがそぎ落とされたように感じた。人から頼み事をされることもない。人の機嫌取りも、評価を気にすることもない。
1か月ほど経った頃だろうか、すごく居心地が悪かったのだ。それもそうだよな、20年以上周囲に気を配り率先して声をかけたり、手を貸したり自分にできることは何でもやってしまう。そんな生き方が心にまで染みついて、足枷のようになっていた。
ほどなくして、また自己犠牲な振る舞いをし始め、新しい環境に慣れてくるころには、いいやつの地位を築いてしまっていた。
僕はいいやつをやめられなかった。
これから「わがままな自分」を認めて振る舞っていきたいはずなのに。自分と他人の天秤が最初から傾いているようにさえ感じてしまう。そもそもこんな天秤さえなければ良かったのに。
いき過ぎた「誰かのために動ける」ことをアピールポイントみたいに扱ってきた自分も周囲もなんだか恨みたくなる。
いいやつは自分を見失いがち、損しがち、そんなこと小学校の道徳じゃ習わなかったぞ。「人として良い振る舞い」って共通認識のはずだろうに、どうしてみんな辞めてしまうんだ。
きっと同じ時間を生きている最中に気づけたんだろうな。隠されてる何かに。ほんとなんだろう。