集団とポジション、それと意識 Day 16
日本人はいつから周囲との間に流れる「空気」や「雰囲気」などを自ら率先して過敏に気にするようになったのか。
この類の本で最近よく目にしたのは「同調圧力」や「村八分」という言葉たちだ。
中学生の歴史で「5人組」という村の管理システムを指す言葉があったことを思い出す。
それから「空気を読む」や「KY(空気読めない)」が流行語になったこともあった。
身近な集団内で「KY」にならないように気をつけることが最低限のマナーであって、うまくこなせない者は異端者として吊し上げる。
これらの慣習を国民病だと問題視する声も少なくはない。
そんな僕自身も生活での息苦しさを感じるまでは、そもそも問題視すらせず正しい生き方だと思っていたひとりだ。
最初から「集団」という言葉を意識していたわけではなかった。
最初に頭に「集団での過ごし方」にハテナを浮かべたのは、中学生くらいだったか。
学校行事の多くはグループで行うことが多く、意識する前はなんの疑いもなく素直に楽しむ学生のひとりに過ぎなかった。
ただ、どのクラスにも一定数存在したのが作業に参加しない人達だ。
参加しない理由をさりげなく尋ねてみると、
時間の無駄、やりたくない、指示が下手
などと不満不平ばかりの印象だった。
当時は並べられた言葉を理解出来なかった。
自己中心的とか、わがままだとかくらいにしか考えることが出来なかった。
「空気読んで動けよ。」と思う方が早かったかもしれない。
これをきっかけに「集団」という言葉が頭の中にこびりついたのだろう。
そして、多種多様な「集団」に属する機会には、こびりついた言葉を剥がすようにその場の人の動きを観察するようになった。
観察し続けた結果、わかったことがあった。
集団でのポジション取りが激しく繰り返されることがある。
ポジションとは、集団においてのキャラみたいなところだろう。
仕切り屋、可愛がられ屋、ツッコミ、ボケ、面倒見がいいやつ、クズでも許されるやつ、みんなのアイドル、癒し系
などなど。
加えて、1つの集団内で同じキャラばかりが固まることはほとんどない。
それならポジションを獲得しようと、ポジションが被った者同士は自分と相手に優劣をつけるようなことをする。
この時自分自身に劣等感を抱き、自らポジションを譲るような人に限って不平不満を後々こぼすことが多い。
(自己嫌悪はまた別の問題。)
そう、考えるきっかけになった場面の説明が一応はつくことに繋がるのだ。
参加の意思もないのに不平不満を並べることは、僕にとっては気持ちの良いことではない。
しかし、無自覚にしてしまった時にハッと自分自身に呆れてしまうこともあった。
なら、
どうすれば不平不満を言わずに済むのか。
原因はおそらく自らポジションを譲る瞬間に
自分自身の力量を見誤ったか、
相手の力量の憶測が外れたか、
競りに行くほどの自信がなかったか、
はたまた冷めているかのどれかだろう。
どれもこれも自分の内部を改善することで防げるようになるだろうか。
相手と自分のそれぞれの力量を上手く見定める能力を磨けばいい。
勝ち取りにいけると思えるほどの根拠を自分の中から見つけ出せばいい。
冷めていて楽しいか?と自問自答すればいい。
まあ結局は意識の問題としか言えない。それでも心地悪さを防止できるならしていこうと意識し続けるしかない。
意識しててもしてしまう自分はまだまだ足りないということにもなるか。
そろそろ強引にまとめたいが脱線しすぎた…。
つまり!
自分の意識次第で空気を読む読まないは決められる。
それから他人に対して空気を読んでないと感じる時、その背景は相手の内部に何かしらスッキリしないことが関係しているのなら、ただ単にKYと決めつけるよりその相手引っかかりは何か考える方が生産的なのではないか。
そんな風に思うようにはなったかな。