タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

誰の時間か意識すれば自分の時間が見つかる?

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朝起きる時間、授業の時間、休憩の時間、運転の時間、バイトの時間…

 

人は1日で色んな時間を過ごしていると考えるようになりました。様々過ごす時間は大きく分けて2つあると思います。

 

自分の時間と人の為の時間です。

 

最近は友達を家まで送る運転の時間や人を待つ時間を無駄に感じて仕方ない日が続きました。

その時間の中で自分に有意義と言える会話や体験があれば、大切な自分の時間として捉えられたのかもしれません。

人の為に運転している間は勉強も仕事も記事を書くこともできないです。また、削ることが出来るのに関わらず人の為の時間を減らせていないことで悩むことすら無駄であらるように感じます。

 

タクシーやバスの運転手なら仕事の時間、つまり対価として給料をもらうことで自分の時間を消費します。僕にとってのバイトの時間と同じで給料をもらう為に自分の時間をネカフェに捧げます。

 

人を待つ時間と言うのは実に酷な時間の使い方ではないでしょうか。自分の非常勤講師がおっしゃっていたことに感銘を受けると同時に罪悪感が生まれました。

 

「遅刻は人を数分間殺すことと同義である。加えて、その時間で生まれるはずのチャンス、アイディア、お金の全てを0にしてしまう危険な行為でもある。」

 

誰かと約束をしているならその約束した相手の人生を削っているということです。

この言葉で僕は遅刻に対する考えも改めました。

 

善意や好意、無意識で作る人の為の時間は偽善であれ本意であれそれもまた自分の時間の一部のような気がします。

 

時間について考えた時、僕の人生は60年で終わる予定です。つまり有限であり、すでに3分の1は終わり取り戻せないものであることを痛感します。

 

限りある時間をどれだけ自分の時間として煮詰めることが出来るか、今の僕は喉から手が出るほど知りたい答えです。

 

また他人の時間を自分の物として好き勝手に振り回されない生き方を見つけられたら、0になってしまう機会を防ぐことが出来るようになるかもしれません。