タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

なくてもいいもの、なければいけないもの

お題「#この1年の変化」

コロナ流行のよる自粛ムードは生活様式さえも変えてしまった。集会、式典、イベントなどの「人が集まること」は軒並み中止となった。大学の講義も就活セミナーもその例外なく対面が中止になった。その代わりに「オンライン」という新しい環境が置き換わる形で一気に主流になっていった。

僕にとってこの1年は良くも悪くも発見の多い年だった

そう、良くも悪くも自分にとって「なくてもいいもの、なければいけないもの」を言い訳ができないほど認識させられたと感じる。そんな発見があったのは世の中でも同じように見える。豊かになりすぎていたこと、固定概念や風習にとらわれていたこと、変化や不満に目をつぶって生きていくことが決して「普通ではない」と気づくきっかけになったと思っている。「普通ではない」ことが続いたりそういった環境しか知らないと、いつしかどれもが「普通」にすり替わってしまう。人間が悩み続けたり考え続けることに疲れやすく飽きっぽく上手に適応していまう本能ではあるのでしょうが。

それでも考えすぎてしまう「若さに対する可能性」

大学生になってから考えなくていいものばかりに悩まされることが多くなっていた気がする。学歴、就職、人間関係、人生。他にもあるだろうが言葉にすればざっとこんなものだろうか。20代が「人生100年」のすべてを悔いなく満足に過ごそうと思い描く。なら、選択肢も決断の数も、自身の「若さに対する可能性」から生まれる期待からも無限に増やしてしまった。その多さに身動きが出来なくなっていた。そのうちに目の前のことすら疎かになっていく。段々新しいことにも手が付けられなくなっていく。大きく広げた地図の上で、現在地のマークは落としたインクがにじんで濃くなるばかりの時間が過ぎていく。

「負のループ」といううものは確かに存在する

増やしすぎた選択肢や伴って増えていく決断の数に思考も感情も使い切ってしまい、ガス欠になった頭も体も動かなくなる。かろうじて持ち合わせていた「外向きな明るい性格」でその場しのぎのの助力を求めたり、言い訳を受け入れてもらっていた。その代わりに信用を削っていたのだと気づくのは後になってからのことだが、目の前のことをこなしていくことだけに視界を狭めてピントを合わせていくしか手段を持ち合わせてはいなかった。こんなことは長くは続かない。続けられないと言った方が正しいかもしれない。こういった状態に名前があるとすれば「負のループ」だろう。そして、知らず知らずに足を踏み入れていることに当人は気づけない。「普通ではない」ことが続けば「普通」にすり替わってしまう。自分が思う人間らしさは自ら体現したことでやっと確信したのかもしれない。そして、「負のループ」というものは確かに存在して、その結末は突如として終わりを迎えることしかない。持ち合わせていた性格さえ自然に表現できなくなることで、自身の「負のループ」は終わりを迎えた。自然な振る舞いさえ意識してなければできなくなっていた。そこに割り当てる意識のキャパはもう頭には残ってはいなかった。

なくてもいいもの、なければならないもの

前置きがずいぶん長くなってしまったが、これまでがあったからこそ#この1年の変化に反応して考えを発信することにつながっているから放ってはおけなかった。失敗だと感じる経験やそれに伴う遠回りは人生においてなければならないものだと思うようにもなれた。改めて、この1年で人間関係や生活に絞ってもたくさんの変化と合わせて、そんな分別ができるようになったと感じる。

人間関係

人との接触が制限される環境はこれまで抱いてきた人間関係に対する疑問や不満を再認識する形で、やっと自分の答えは見つかったような気がする。大枠に人間関係としてはいるが、リスクを取ってまで実際に会いたいかそうでないか手間をかけてまで関わりたいかそうでないか、と感染という脅威のおかげで自分中心的な考えのもと分割することができた。リスクはもっぱら感染のことであり、そのリスクは自分ひとりだけではない個人には大きすぎるものだと考えている。それでも実際に会うことを選択する場合が少なからずある。家族で過ごすこと、恋人と過ごすこと、日常において当たり前になっている関係や安定には欠かせない存在を大きすぎるリスクでも切り離せないのだと知ることができた。それから、オンラインで関わることにも手間がかかる。SNSでは写真や文章を選んだり打ち込んだり実際に会ってとるコミュニケーションよりも手間がかかる。また、使用するアプリケーションをそろえたり、操作を覚えたり、そもそもネット環境や設備から準備したりと手間がかかる。それでも関わることが勝るならその手間も惜しまないむしろ共有する時間を快適にするためにむしろ手間をかける。これまでの人間関係は自分にとって複雑すぎたり、近すぎたりしていた。それをこういった状況が一旦ふるいをかける機会になり、思考の輪郭を見つけることができた。

生活

人間関係と違って生活の要素すべてがふるいにかけられたわけではない。だから、人間関係の延長でもある「誰かと関わる生活」に限りたい。これまでも1日に誰とも会わずに生活することが特別苦ではなかった。それに社会全体が同じ時間帯で行動すること自体強制されなければ避けて生活してきた。そんなこだわりが今回で肯定されたような気がする。わざわざ人が多いところに向かい、待ち時間を使い、欲を満たすことや思い出を共有することに重きをおいていなかった。これまでは理解されることも少なく変人扱いされることもあった。そんなことから個人的にはそれだけでもかなり救いなできことだ。それから、マスクごし板ごしのコミュニケーションのやり方や意識といった心遣いだ。人間関係に分類されるであろうコミュニケーションだが、円滑な誰かと関わる生活ためには横断的に語っても差し支えないと考えている。買い物や移動など不特定多数と関わる生活は以前と変化はない。伝わりづらい言葉や読み取りにくい表情は円滑な誰かと関わる生活では大敵になってしまう。それから、過程や様式が感染対策に染まっている。ちょっとした違いはあれどその都度合わせていくことを求められる。これらに心遣いをしていくことはなくてはならないものだと再認識できた。

おわりに

こんな特別な状況だからこそ自分の思考の輪郭を見つけ、なぞる時間ができたと思っている。複雑すぎるもの、多すぎるもの、見えてなかったもの、そういた物事を強制的に浮き彫りにしてくれたのではないか、と社会と自分を区切るようにこれまでを振り返ってみた。まだ続くコロナ感染の脅威に怯えながらも、自分の思考をもっと言葉にできるように考え続けていきたい。「なくてもいいもの、なければいけないもの」を見つけたことがこの1年と言わずこれからの変化になると確信している。また、こういった状況でリスク度外視に他者を求めすぎてしまうことや自分の生活を他人の采配に任せすぎていることを弱さのように思うこともあった。しょうがないでは片付けきれない部分も浮き彫りにしてしまう状況は、自分のことを自分でどれだけコントロールできるかを問われているように感じる。自分にとって強さに当たるものはなんなのか。これから考えなければいけないものかもしれない。