タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

僕はただ、さみしがりな人間だった

久しぶりの投稿になります。

 

生活の変化から、悩みが頭から離れなくなってしまいました。考える時間が増えたからですね。そして、頭の中を書き出す作業で暇をつぶすことが、僕の悩みすぎることへの予防策だったり特効薬だったりします。

 

「継続は力なり」

 

習慣や学習、おおきく人生においてとても大切教訓だと、いま強く感じています。

 

当ブログに自分の言葉をつづったり、読書アカウントに読後感想を投稿をしていたりしていた毎日を、懐かしさと恥ずかしさとちょっとしたまぶしさを感じながら振り返っていました。

 

運営開始当時から「継続は力なり」を言葉では知っていました。そして、継続もしていました。ただ、「なんの力」になったのか、その実感を得る前に自分の中で満足してしまったように思います。

 

何かを継続する際に欠かせないのは、「なんの力」を身につけた自分がいる、という理想像を妄想し尽くすことでした。突発的に興味本位で始めたことでさえ、目指すものがはっきりしていると、道中で満足しやめてしまうようなことにはならないのかもしれません。

 

なんとなくの継続から「なんの力」も得られなかったのか。

 

現状の自分は「ノー」と答えます。

 

確かに、ブログや読書アカウントの運営の力は身についてはいません。それらで目指すものがはっきりしていなかったから、しょうがないと思います。「なんの力」があるのかすらわかっていないのだから、見えてこないようなものです。

 

途中で満足した道中から、はっきりと、身につけたちからがありました。

 

それは「自分を知る力」です。

 

なんだそれ、って記事を書いている自分ですら思ってしまうような力です。けれど、数年前になくて今ある、身につけた力なんです。

 

記事や感想を書くためには、自分の価値観を知って、視点や軸を定めることが欠かせませんでした。物事に対して、どう感じて、考えて、実際言葉にしていくか、頭の中や心の中にまで目を向けていく時間がどうしても必要でした。それと、染みついた癖のような、無意識に処理してしまう動作にも意識を向けていく作業も必要でした。最初の方はかなり時間を割いていたと、振り返っても感じます。

 

日常生活において、感情がゆれ動く出来事には自分を見つけやすいのです。問題は、無意識にしている仕草や表情、生き方みたなところから自分を見つけ出すのはきっかけすら脳みそがちぎれそうになってました。

 

そんな道中で「自分を知る力」を身につけて、見つけ出した自分に染みついていたものがいくつかありました。その中で、つい最近まで認めたくなかった自分がいました。

 

『僕はただ、さみしがりな人間だった』

 

それでも、脳みそがちぎれそうになりながら目を向け続けた素の自分なのだからしょうがないかとなりながら、これを書いている今現在も、唇をかむほど受け入れがたいです。

 

これまで書き出してきた記事でも取り上げてきた母親や友人をはじめとする人間関係から生じる悩みに、色々とつながりが見えてきたような気もして、安堵しているような感覚もあります。

 

安堵してしまうのは、別の可能性を探し続けて、それでも見つけられていなかったのもあるのでしょう。

 

母親に素直な気持ちを伝えてみたり、女友達をつくってみたり、友人と騒いでみたり、夜のお店に足をのばしてみたり、風俗を利用してみたり。さらに、独りで色々やりはじめてみたり。

 

ひとからのぬくもりを実感したかった、さみしい気持ちをどうにかごまかしたかった、むしろ、さみしがりな人間だったからと理由をはっきりさせたい願望がつのっていた気さえしてきます。

 

「自分を知る力」から「僕はただ、さみしがりな人間だった」を見つけ出せました。見つけ出したことと受け入れることが別物だったと理解することもできました。そして、受け入れたことで衝動の原因に検討をつけることもできました。

 

自分がわからないという不安はなくなり、悩みを割り切ることができるようになる。

 

そんなことを「自分を知る力」には今後も期待できそうです。