浸る時間、求めていたもの
お金、人間関係、進路に同時につまずいた。つまりは人生のお悩み詰め合わせセットが経験したことのないレベルで一度にやってきた。
そんな後に迎えた休学期間、復学してから合わせて2年間はひたすら本や映画なんかの物語に浸っていた。
ビジネス本の失敗談、恋愛物のすれ違い、人生観をくすぐってくれる作品、フィクションの中の人間模様、色んなジャンルの物語に浸りまくった。
「物語に浸る」というのは半身浴のように足を伸ばして座って腰あたりまでの水位に留まる感じだろうか。
どんな人生、物語にも必ずといっていいほどキーマンとキッカケが存在する。そうじゃないと決められた創作物の幅の中で物語が二転三転し、表現したい結末に向かわないからだろう。
最初の方は実話であれ創作話であれほとんど他人事のように一線引いたところから眺めているような感覚だった。
こんな人生だったらよかった、こんな出会いがあれば僕だって再起したはずだ、こんなにもがいていられるのは主人公だからだ。
まだ浸るというより水に足を踏み入れることなく眺めているだけだった。
いつからだろう、僕が浸るようになったのは。
あぁ、そうだ。表面的に自分の悩みや失敗、経験とは別ものだと思い込んでいる自分に気づけた頃からだ。
それぞれに違ったドラマがあって、それぞれの解釈があって、それぞれのキッカケやアプローチがあって、それぞれの結末がある。
自分を含めた全部が全部、バラバラな物語だと思い込んで観ている時は受け取る印象もそれぞれ区切られたものだった。
だけど、思い込みからバラバラに見えただけであって、共通点がいくつかあった。
ここに気づいた頃に、やっと浸れるようになり始めていた。
どんな人物にも周囲の人と影響しあって、出来事に対して選択や実行を繰り返しす。
道中、挫折や葛藤が混ざりながら主人公が納得する結末をつかめるかどうか。
作品の良し悪しは、その納得具合の心情をうまく表現出来ているかどうかじゃないかとも思えてくる。結末が予測通りや胸くそ悪かったり僕が納得してなくても良いものは良いとなる。
僕の人生にだって周囲の人がいて、挫折や葛藤はあった。後は自分が納得出来る結末を掴むために選択と実行をするだけじゃないか。
なら、主人公たちはどうやっているのだろうか、自分と似ている部分はないだろうか、理解できない部分はどうしてだろうか。
そんな風にどんどん浸っていけるようになっていた。
物語に憧れたり嫉妬したり区別していた頃よりずいぶんのめり込み方は変わっている。
きっと、いつか訪れる結末を満足できるものにするための準備なのかもしれない。
最初のような曇った見方で、大事なキッカケを見落とさないようにする。
この姿勢を求めていたのかもしれない。