普通になりたい、それでもなれない
普通
この言葉に僕は小さい頃から悩まされてきた。
先生の言うことにチャチャを入れる小学生時代。わからないこと、納得出来ないことでも「はい、わかりました」と返事をすることが、親から求められる普通だった。
最近どこかで聞いた言葉に
少ない母数を理由に自分を否定しないで欲しい
と言うのがあった。
僕には小さい頃から言われ続けてきた「みんなと同じようにしなさい」という、普通を求める親からの説教がフラッシュバックした。
この時の僕はなんて言い返したっけ。素直に「はい、わかりました」とは言ってないはずだった。
みんなって誰だ、同じように出来ないから困ってるんじゃないか、周りのみんなは同じじゃないぞ、それなのに自分は誰と同じにすればいいの、
そんな思考のどれをも言い表す言葉を、あの頃の小さな僕は持っていなかっただろう。
何かを言い放ったその後に「はい、わかりました」を求めるように諭されたことだけは覚えている。
僕はいつだって親以上に普通になりたかったんだと思う。
怒る親より褒めてくれる親の方が好きなのが子どもらしい。
それでも、今でも普通にはなれてない。なれなかった。
僕が普通にしていると、みんなより劣ってしまう。
僕が頑張ると、みんなより良くなってしまう。
そんな絶妙なラインを見越して普通を演じる方がよっぽど普通じゃない。それにそんな技術を僕は持ち合わせることが出来なかった。
そんなこんなで普通になりたいと願い続けた僕は、23歳になっても普通になることは出来なかった。
年齢や学年、学校や環境が変わる度に尺度になるみんなも変わっていった。
いい子に囲まれたらいい子になって、賢い子に囲まれたら賢い子になって、タチの悪い子に囲まれたら…なんてことを続けてたら心が壊れてしまった。
悪い子にはなれなかったのが自分にとって普通であるはずなのに、いつもの癖でなろうとした時に自分の中の矛盾に耐えられなかったんだと、今ならわかる。
僕にとっては初めて自分の普通が見つけられて喜ぶべきところを、「はい、わかりました」と言えない自分だと勘違いしてしまったのだろう。
最近になってやっと勘違いをしていたのだと、気づけただけでも遠回りしたかいがあったんだって、自分を肯定しようとしている。
他人事だった自分の人生にもやっと、こんな風に自分優位な生き方が芽生えてきた。
このブログを始めたかいもあったのだろう。
『他人事な自分の人生(仮)』と命名した伏線をようやく回収できそうな気がしてワクワクしている。
わざわざ (仮) をつけたのもこの日のためだったのかもしれない。
普通になりたいと願ってた自分をようやく成仏してあげられる。