タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

感覚と我慢、慣れて果て Day 17

自分と似ている人を見てるとなんだかくすぐったい気持ちになることってないですか?

 

「自分ってこんな感じなのか。」

 

って視覚外の自分が目の前に現れて、良いものより悪い方の印象を感じて、なんだかくすぐったい。

 

それと同じように、自分が嫌いな要素を持つ人と出会うと、受け入れたくないような感情が心をざわつかせる。

 

「怒る、愚痴る、文句を垂れる」などのように口に出したところでなんの解決にもならないことを発し続ける人には、心が嫌がるようにザワザワする。

 

ある時、「やらず嫌いは損をする」みたいな言葉に出会った。

 

「変化を嫌がるのは人間の本能的な反応で、チャンスすら気づけず見落としてしまう。」

 

という意味だっただろう。

 

この文言の解釈を勘違いして、人間関係をこじらせる失敗を犯し、留年や休学するに至った。

 

元々人間関係の範囲は狭く、嫌だと感じることが限りなく少ない人たちとの交流を送っていた。

 

さっきの言葉に出会って

 

「僕は嫌いな人と関係を持たないことで何か損をしていることがあるのか?」

 

ちょうど2年前にそう思い、

 

「心のザワつきは変化を嫌がる反応で、学びのチャンスがあるだ!」

 

と言い聞かせながら、嫌いだったり、苦手意識を抱く人たちとの交流を積極的に行っていた。

 

結果から言えば、大きな間違いだった。

 

確かに偏見を持って接することの愚かさを気づくという大きな収穫もあった。

 

だがそれ以上に、自分が嫌いだと感じる行為を普通のことのように続ける人間とは最後まで理解し合えないということだ。

 

そしてもっと大きな代償が生じた。

 

小さな気づきを得ながらも自分にとって嫌いな要素は、毎日の積み重ねで自分にとっても普通にすり替わってしまうことだ。

 

嫌いを我慢するというのは想像よりずっと多くの体力や気力を消耗する。

 

すると、目の前に溢れる「嫌いなこと」を始めとする苦手や理解できない情報を「嫌いなこと」として処理出来なくなる瞬間がやってきてしまう。

 

この時すでに、頭と心の体力は限界に達しており、気づかぬうちに処理落ちしてしまい、機能停止情報に陥ってしまっていた。

 

考えること、感じることをやめた後に降り注ぐ「嫌いなこと」は、スッと受け入れてしまえる「普通のこと」になってしまう。

 

もっと怖いのはこの変化に気づいていなかったということだろう。

 

僕は無自覚に、嫌なことを嫌だと感じ取れない自分になってしまったのだ。

 

この変化に気づいたのはその環境から逃げ出して、数ヶ月経ったころだった。

 

うたた寝から目覚めるような、忘れ物を思い出したような、そんなハッとするような感覚で「嫌いなこと」を嫌いだと感じる何かが瞬間的に蘇ってきた。

 

そんな今だから思うことは、

 

嫌なことを我慢してまで得たかったものはわずかで、我慢し続けたことで「何かを得る」という目的が「我慢すること」にすり替わってしまう。

 

すり替わったが最後、その先にあるのは「我慢すること」に慣れて心も体も疲れ果ててしまう。

 

僕は経験で我慢し続けることの危なさをしった。

 

経験から学ぶ愚者だ。

 

だが、これを見てくれる人には

 

歴史から学ぶ賢者になってほしい。