タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

心にブレーキがかかるのは わがまま編

人は「わがままであり続ける」べきだと思うようになってきました。駄々をこねたり、自分優位な思考をしてしまうことは子供らしさの特徴のように扱われています。ですが、「わがままでなくなる」ことが大人に切り替わった証拠のように扱われるのは不満さえ今は感じています。もしかしたらこの思想でいること自体が子供っぽい、大人になれていないと非難されるでしょう。そんなことを理解したうえで僕はこの立場でいることを「わがままに」決断したのですから、もう立派な「わがまま」の仲間入りです。

 

何か物事を決める基準に自分以外がある時点でその決断は少し待った方がいいかもしれません。また、そんな決断を急かされている時はなおさら待つべきだろうと思っています。

 

僕のこれまでを振り返った時に様々な決断に良い悪いをつけるなら、良いとはなまるをつけられるのは自分のことだけを考えていた時、つまりは「わがままになれた」時だったように思います。(元恋人には自分のわがままを理解してもらう努力を怠っていたために何度も喧嘩をしてしまいましたが…。)

 

決断の際に決めかねる原因は考える必要のない誰かのことが気になってしまっているからかもしれません。それか決断の必要のないことを強要されてしまい考えるタイミングがかみ合わない場合も考えられます。

 

この二つに関わってくるのが「わがまま」な子供を矯正しようとする環境だったり、過干渉な母親だったりするからタチが悪いのです。なぜなら自ら選べる力がないときにそれらは大きな影響力をもって本来の「わがまま」な思考に入り込んでくるのですから。

 

自己啓発やビジネス、ライフハック、スピリチュアル系などの書籍を何冊か並べてみると「時間の価値を見直せ」「お金の知識をつけろ」「自分自身を知ろう」などの文言と同じくらい「環境を選べ」とおっしゃっています。

 

自分の生き方に疑問を抱きすがるようにこのような本を手にしてから、これからを考えるような人たちにはもう「わがまま」に環境を選ぶ力が残されているとは、僕には考えづらいです。もっと簡単な処方箋が欲しかったはずなのに肩透かしを食らったような気持ちで本をそっと閉じてしまうのではと思ってしまいます。僕は何度かそうでした。

 

さて、「わがまま」は矯正されて「他人想い」へと変貌をとげ社会の労働力として貢献している人が大勢いるからこそ豊かな社会、安定した経済がなりたつようにも思えてきました。そんなことを教えてくれるのはこれまで浸っていた環境やそこで働きながら育ててくれた親なわけです。だから、自分に合うか合わないか、ではなくて合わせていくことが最低限同じだけの賃金を頂きながら生活できる経験の伝承なのかなって感じています。わざわざわかりきっている最低限の生活を捨ててまで「わがままになる」必要が理解されない部分ではないかと考えられます。

 

けれど、そんな世の中を引っ張るのは圧倒的な「わがまま」な大人たちではないでしょうか。そして、社会や経済を支えている労働者側と違うのは「わがまま」を許容させる力や賛同させる力、これらの能力や類するセンスの有無ではないでしょうか。

 

センスは真似をしようと同じ視点に立つことができても同じモノを捉えたり見据えることは後天的には限界があるでしょう。ですが、真似することで発展が期待できる能力開発に意識を向けていくほうが勝算があるでしょう。

 

僕はたまたま社会出遅れたことでそんな自分をなんとか社会に当てはめようと考える時間がありました。結局はこんな理想論を語ることで社会に当てはめられない自分を肯定したいだけなのかもしれません。ただ、この思考の道中を生きているのは社会や親や他の誰でもない「わがまま」な自分なのだと、はっきり認識している間は続けていきます。

 

今回、心にブレーキがかかるのは、これまでの環境や両親から与えられたものに懐疑心を抱いてしまったという申し訳なさに似た気持ちから自分の思考をこのように書き出すことでした。これまでとこれからどちらが良いとか悪いとかの軸で考えてしまえば必ずどちらかを悪いと考えてしまうのは、やはり心苦しいから僕にはできそうにありません。だから、これまでも理解したうえで自分勝手に「わがまま」に僕はこれから生きてみたいだけなんです。