主体性や自分らしくって言葉に振り回されて
今回の話はまずは、オチから言いたい。
「いつ死んでもいいように生きたい。」
これがオチであり、僕の理想であり、そんな生き方をする親友を持った話。
まずは、2つの言葉は自分の中でどんな立ち位置なのかを確認したい。
「主体性」という言葉を使うのは、誰からか自分へ、自分から自分へ、または自分から誰かへと。何かの方針や計画や目的の主語は誰なのかを明確にしたい時に使われる。
「それの主体性は誰なの?どこにあるの?」
みたいな感じか。
だからなのか、僕にとっては「悩む作業」に取り組むと頭の隅っこにわいてくるイメージがある。
また、その作業の中の1つに「生きること」を位置付けている自分がいること。自己分析をし始めた事で気づいてしまった自分のそんな一面も、イメージを抱くのに拍車をかけてくる。
意味も使い方もなんとなくわかってて、それでも太刀打ち出来ない「主体性」って言葉にうんざりしてた頃に、また新たに「自分らしく」が僕の前には現れた。
「自分らしくって陳腐な言葉だな」って自分の中に入ってきた時は思ってた。
最近の啓発本や心理系の書籍には、「自分らしく」と表紙に見ない日はないくらい凡庸性を持った言葉になってきた。
世の中の人が何かしら不満を持って、自分を装って生きていることから抜け出したいという欲求がピークになっているのか。
「なんだ、わからないのは自分だけじゃないのか。」なんて本屋で楽観的に思ったのも自分だけじゃないはず。
そんなことを考えて、僕自身の何も解決にいたっていないことを忘れそうになる。今は自分のことを考えないといけない時だった。
「主体性」を探るためには「自分らしく」って言うのが鍵なのかもしれない。
「主体性」は「自分らしく」の上位互換なのか、なんて思い始めた。
じゃあ、自分にとって悩む作業の1つであって、人生のメインである「生きること」で探ってみるしかないか。
だからと言って、主体性があって、自分らしく生きることってなんだろって考えてみても、ちっとも答えなんて見えてこない。
なら逆に、いつから主体性を捨て、自分らしくない生き方をしてしまったんだろうって反省や分析をした方が今後のためになる気がする。
23年間の人生を振り返ってみると、共通して見えてきたことがあった。
それは、妥協してなんとなく判断を下した時の「なんとかなるでしょう精神」で結果を迎えた時。
必死にならないといけない時に力を抜いてたどり着いた結果には、「自分らしく」など存在してない。
しかも、いざ迎えた結果について、望んだものなんてないのに「なんか違うな」っていうわがままっぷりを発揮していた。
そう、僕は流れに身を任せて、結果の責任すら誰かにとって欲しいと無意識に思ってるクソ野郎だったんだ。
これでパーツは揃ったようなもの。
「主体性があり、自分らしく生きること」に必要なものは、
・本気になること
・意識的に選ぶこと
・結果を受け入れること
の3つに絞ることができる。
また、「結果を受け入れること」というのは、「自分のしたことの責任は、自分が取る覚悟を持つこと」と、言い換えることもできる。
最後に、この3つを実践して得られるものは、結局なんなのか。ここがやっぱり大事。
最初に言った
「いつ死んでもいいように生きたい。」
こいつを叶えてくれる。
余談だが、
僕にはこの生き方を教えてくれた親友がいる。
その親友はいつも長生きしたくないとか、やりたい方を選ぶとか、割と本能的に行動してる「変だけど面白いやつ」くらいにしか見えてなかった。
そいつとなぜか死生観について話すことがあった。そして、オチの言葉を僕に教えてくれた。
「人間ってのは、必ず死ぬ。そして、死ぬ間際にやりきれなかったことを残してしまうことが、自分の一生を後悔で締めくくってしまう。なら、いつ死んでもいいようにやりきった方が良いに決まってる。もし、本当に自分が望むものならなおのこと。」
付け加えるように、もう一言だけ。
「ま、目の前にあることが本当にしたいことなのかどうか、これを知るのが一番難しいんだけどな。」
僕はこの言葉を受け取った時、忘れてはいけないとすぐに感じた。
今日、この文を書こうとするまで、ずっと頭の中に親友とのやり取りを思い出してた。
ようやく僕の血肉にできるほど、考え抜けたと思ってる。
いつか、親友へ「あの時の言葉のおかげで、今日までやってこれたよ。ありがとう。」ってやるのが夢になった。