タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

「ハネムーンパルシー」で、普通が普通じゃなくなって。

ちょうど1ヶ月前に朝起きたら右手が動かなくなる事件があった。

 

「あれ、おかしい、まじ…。」って普段動くはずの右手とにらめっこしながらあたふたしてたのを良く覚えている。

 

その日はラーメン屋でランチ帯の勤務。自分が欠けると多少迷惑がかかってしまうと思い、どうにかこうにか身支度と出勤をこなした。

 

いつも通りに動けば動くほど、使いものにならない右手に不安とイライラが募っていく。

 

ランチの波を超え、結局足を引っ張ってしまった店主と同僚に頭を下げながら、ひと足早く上がり整形外科へ向かう。

 

限界を迎えそうな不安とイライラは、診察で一気に晴れることになった。

 

問診を終えた医師が少し笑みを含む表情で、

 

「ハネムーンパルシー、ハネムーン症候群、橈骨神経麻痺だね、こりゃ。誰か腕枕でもしたの?」

 

この病名の由来は、ハネムーンで腕枕を頑張りすぎた男性が翌朝、腕の痺れを感じることかららしい。

 

しかし、僕の場合は自分の頭を支えて、ひとりでやってしまったこと。これに医師は笑っていたのだと、僕もつられて笑ってしまった。

 

よくよく思い出してみると、患う前夜にしこたま飲んで気持ちよく寝たのだった。

 

医師いわく、酔っぱらうと寝返りがうまく出来ないことがあるのだそう。

 

原因がわかったとしても、橈骨、つまり上腕の神経が傷ついている状態だから、回復にはどうしても時間がかかってしまう。

 

僕の右手が不自由な状態の全快までは、およそ1ヶ月ほどかかってしまった。

 

その間に「普通が普通じゃない」時間を過ごすことになる。

 

右利きだから、生活のほとんどを右手でこなしていたことに気づかされる。

 

歯磨き、髭剃り、鍵を開け閉めも。

洗い物、包丁、しゃもじにお箸も。

買い物、会計、荷物を持つことも。

 

使う、触る、握る、様々な動作が、生活のほぼ全てが右手で成り立っている。

 

それも無意識なまで右手に頼りきっていることに、気づくことになった。

 

そして、今回のことで普段は意識をすることもないことに2つも気づくことが出来た。

 

2つはどちらも他人に対して、そして、良い面と悪い面だ。

 

悪い面から話そうか。

 

普段、何気なく普通にしている動作のひとつひとつが、ぎこちなくなることに違和感を持つことだ。

 

人前で不自由な右手を使う時、他人は僕の右手に注視していた。被害妄想かもしれないが、おそらく「普通とは違うもの」を見る目だった。

 

僕を含める、あくまでも問題なく手足を使えることが前提な人たちには、不自由な右手に違和感を覚えるのだろう。

 

僕は右手が使えない非日常から、「無意識の当たり前」を身をもって感じることになった。

 

正直、同じような視線をどこに行っても感じることは予想してなかった。皆がみな、無意識の当たり前を露骨に視線で表している。

 

自分にとっての普通を、他人にとっても同じ普通だと思い込んでる様にも見えた。

 

良い面の話もしなくちゃ。

 

ありがたいことに勤務先では、僕が出来ないことを周りがサポートしてくれた。不慣れな左手と不自由な右手で出来ることだけに専念させてくれた。

 

これほどまで、他人の支えを意識出来る日々が愛しいと思えるとは。

 

元々きっぱり分担していた仕事も、僕と誰かが混じるような仕事になっていた。二人三脚、三人四脚のように、人との繋がりに気づかせてもらえた。

 

どんな些細なサポートも、誰かのちょっとした想いがつまっているんだと。

 

頼ることが苦手な僕が、頼らざるを得ない状態になったから気づいたこと。

 

今ではもうすっかり右手も良くなって、またいつもの普通に戻ってしまった。

 

けど、心だけは前とは少し変化した。

 

「普通が普通じゃない」生活の中で、僕の世の中を、人を見る目が大きく変わった。

 

自分の普通を他人に求めてしまいがちなこと。

自分の出来ないを支えてくれる人がいること。

 

人は無意識なままだと、ひどいことも素晴らしいことにも気づくことは出来ない。

 

非日常から、僕が気づいたことの話。