タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

並木道の透け感と、街の抜け感。

日記やTwitterとは違った話をブログではしていきたい。

 

勤務地に向かうのに、今はちょうど見頃な桜並木の下を抜けて行く。

 

桜との接し方は様々なもので、携帯を向ける人、ベンチから眺める人、遠くからその景色を眺める人などそれぞれのやり方があるようだ。

 

色んな接し方をする人たちを横目に通り過ぎるのが、僕なりの桜との接し方なのだろう。

 

さて、桜に限らず並木道というのは普段の生活

とは別世界のような感じがする。

 

ジブリのような、観光地のような並木道たちは、ビルに囲まれた生活から人の心の逃げ道のような立場に繰り上がってしまったのだろうか。

 

並木というのもほとんどが人工的に造られたものだから、上手く計画された街作りに流されているのだろうか。

 

並木道が心の逃げ道という表現は個人的にはしっかりきている。

 

街での生活は、箱のような建物の中を行き交うと言い換えることができよう。

 

壁や天井には奥行きや隙間という概念はほとんど存在せず、むしろ土地や空間を区切るかのようにそこにある。

 

ガラス張りの壁では、視覚的な抜け感によって多少の息苦しさは無くなる。しかし外からは商品を見せられ、内からはまた箱物に沿って歩く人が覗けるだけだろう。

 

そんな風に街並みを悲観的に捉えてた自分に少し発見があった。

 

ビルとビルの間にある平面駐車場に足が止まった。

 

駐車場の奥には反対側の換気扇や通気口がずらりとならぶ。

 

決して観られることを意識してないそれらはなぜかとても綺麗に見えた。

 

完璧に造られたはずの街並みとは違う景色が、その区画に広がっていた。

 

そこに街の抜け感を見つけた。

 

生活の逃げ道としての並木道。

 

街並みの苦しさから解かれた平面駐車場。

 

壁や天井で区切られ、無駄のない生活こそ現代人の求めてきた在り方なのだろう。

 

そこにはどうも余白や隙間が足りないのかもしれない。

 

気づいていながらもどうしようもないと無意識のうちに諦めてしまっているからか、

 

街から出て、桜並木の抜け感を求めて人々が集うのかもしれない。