タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

心にブレーキがかかるのは 進路編

「進路」といえば、中学生くらいから親の方針で意識する人もいれば、大学受験を控える高校生の紙切れで考えなきゃいけなかったり、なるようになれと我が道を進み続けて考える隙も無い人も、様々な解釈や向き合い方がつきまとう言葉のように感じます。

 

僕にとっては地元の公立中学校の治安が悪すぎることを知って「一度きりの青春を邪魔されるのは嫌だな」という気持ちだけで中学受験を決意した頃には意識し始めた言葉でした。

 

それから10年以上の時間をかけて「進路」は気持ちを優先しすぎることも許されず、また勝手に固まっていくものではないのだと、やっと気づくことができたなと思う今日この頃です。

 

大学生という肩書にすがり続ける傍ら「どうすれば大学生を捨てられるのか」そんなことばかり考える生産性もない無駄のような時間を過ごしてきました。

 

この記事をはじめとするこのブログさえ、最初は「文章で食っていくには投稿する習慣づくりからだ」なんて見切り発車と熱量だけで開設したようなものです。

 

結局、現状で大学生のままの僕がいるということは、積み重ねた記事たちが世の中の誰かの役に立つこともなく、価値を持たないまま量産され続けているのだなと思ったりもします。

 

ただ、ブログなりSNSなりのために始めた興味ある分野の本を手にすることや日々の出会う知らない事柄を検索すること、またそれらを忘れてもいいようにメモをすることは確かに習慣として僕の血肉になっているのだから無駄ではないんだぞ、とこれまでの自分を励ます材料にしています。

 

さて、最近の思考の大半を占める「進路」については3つありまして、きっぱり選びきれない自分に対して情けなさを感じてばかりです。

 

ひとつめは、このまま新卒を手に入れて就活に本腰をいれることです。ただ、惰性です。建築は『結婚できない男』を見てから、建築士ってかっこいいな、なれるかなくらいの気持ちで専攻しました。ただ、課題では挑戦的な創造性を養うことも叶わず、薄給激務に耐えるだけのやる気も持ち合わせていなかったことに在学中に気づかされ、建築業界自体の興味も薄れってしまっている自分がいるのも事実なんです。

 

救いなのは、そんなものを必要としない職種が建築の分野にはあるということでしょうか。やりがいを建築物以外から感じ取っていける職種があるという認識です。

 

ふたつめは、自分がしくじったことを軸に新たに学び始めたいということです。人間関係や生き方でしくじったことは決して自分ひとりだけの経験では終わらない価値あるものにできるのではないか、そんな風に考えています。ならば、それを専門にする知識を学ばなければならないだろう。そのためには学ぶ場や機会を新たに作らねば、と行動に移したいのです。

 

これは去年、大学生をやめるための言い訳だと、学費を納める母親からの理解を得ることはできませんでした。

 

みっつめは、アルバイトをしながらふらふらしてみることです。最後になに言ってんだと自分でも思います。けれど、いっそすべて手放して手当たり次第につまみ食いする人生も短命なら悪くないだろうと半ば思考放棄の気持ち優先な選択肢です。自己責任で人生を楽しむことに外野から何か言われないといけないのだろうと思ってしまったのが運の尽きかもしれません。

 

安定か、挑戦か、迷走か、どの「進路」を選んだとしてもその後に楽があるわけはないのだから、どれを選んでも同じように思いますが、

 

両親に認められたいとか、社会的地位を手に入れたいとか、周囲から失望されたくないとか、そんなノイズが思考に混ざってくる感覚に戸惑っています。

 

25歳になる今年、これまで以上に「進路」を選びきる気持ちを試されるような年になるのだと思っています。

 

選びきれずに、押し通せずに、ずるずると年齢だけを重ねてしまわないように、たとえ正解を導けなくとも後悔はしないように向き合う年にしていきます。

 

今回も駄文をつらつらと…。

心にブレーキがかかるのは 恋愛続編

明けましておめでとうございました。年末年始はアルバイトの長時間勤務で、気づけば新年みたいな感覚でした。

 

昨年のブログに関しては、前回から何度か下書きを残しながらも、書ききれない、まとまらない、何をここに残したいのかはっきりしない、そんな自分に嫌気さしながら更新できずじまいでした。

 

今年は就活で自分のことをまとめる作業が多くなり、言語化に費やす時間は確保していくことを、ブログ活動の抱負にします。

 

さて、恋愛の続編を書かなければという使命感が何故かふつふつと自分の中で芽生えてきました。きっかけは単純で数年ぶりに好きな人が出来たことでした。

 

自分にとって好きな人ができる感覚が精神的な復活の兆しのように感じています。まさか、やっと、誰かを好きになれるほど落ち着いたのかと。

 

久しぶりに抱く感情に高揚しすぎて、けれど扱いを忘れてしまっていて、手始めがアルバイト先の女の子に宣言してまう奇行にはしってしまいました。

 

それから、母親との関係性の見方を改めてみようと思えたのも兆しのひとつなのかもしれません。

 

恋愛感情を精神的な復活といったのも、これまでに狂ってしまうことが立て続けに起こり、それらに立ち向けなくなってしまったことから始まります。

 

サークル活動に尽力していましたがメンバーの協力は得れず空振り続きでひとりですべてやっていたのを、留年をきっかけに運営の助っ人に入れたはずの同級生はかなりの粘着質な暴君で理不尽な拘束されることが増して時間を搾取される日々に変わり、面倒見ていた男の後輩の妬みを買うことがあり女子マネに対するセクハラのうわさを広げられ、無実だったセクハラをちゃんと無実だと提言してくれる協力を周りから得れず、同時に両親、学校に弁明する毎日に疲れて休学することを衝動的に選んで、ストレートの大卒とは違う生き方を模索しながらも、母親の大卒コンプレックスに歯向かえず、気持ち新たに大学生活を送っていると、今に至りますね。

 

サークルでの問題は主観的な状況証拠しか用意できないからややこしいですね、、、。

就活でもこれまでの経緯に言及されることが増えてるので、改めてまとめてみようと思います。

 

端的に言いまとめると、生き方が下手すぎました。

 

話を戻しますと、

 

他人に振り回される環境に長いこと浸ってしまうと、自分の時間や気持ちを守ることにしか意識が向かなくなってしまうんですよね。だから、自分以外に感情や時間を使うのは労働の一環でしか難しくなって、人を好きになるような行為に一線引いてしまっていました。

 

自分の人生を生きていない僕が誰かの人生に関わることは失礼なことだし、他人に振り回されるくらいの弱い僕が抱く気持ちはどうせ脆いものだからそもそも構築してはいけないんだ。

 

そんな思考が様々な感情にふたをするような感覚で、それなら今は自立できるように努力しなきゃいけないだろうと自分だけのこれからのことばかりに集中しようとしていました。

 

それから、過干渉でわがままな母親の言動に僕の一家以外を巻き込むのは嫌だなとふつふつと考えてしまうことが少なからずありました。

 

兄貴は生計が自立してからは、父親は離婚してから、母親との連絡を遮断しています。各々に理由を聞いてみると、母親の固定的な価値観の押し付けと煽るような口調に話が進まないし折り合いをつけられないから連絡の必要性が感じられないと言っていました。

 

母親の矛先は狂っていた、自立していない僕に向くわけで、ふつふつ浮かぶ最悪な空想が本物にならないように恋愛や結婚の類の話は全面的に否定する態度を取り続けていたんです。

 

母親の言動に直接的な影響を受けないためにもまずは自立した精神と生計が必要になってくるのだと、ならそのための対策をあれこれやってみるしかないのだろうと前向きに考えることは多くなりました。

 

結局その姿勢自体に母親が影響していることも理解しながら、あくまでも父親や兄貴のように遮断してしまうような関係になりたくないと考えています。

 

 仮に母親が毒親と定義される人だとしても、一家が機能不全家族だったかもと懸念しながらも、家族という単位で結ばれた現実を受け入れていきたいと思っています。

 

そして、そんな現実を理解してもらえる誰かに恋愛感情を向けられる日がいつかくればこの葛藤や決意も報われるのだろうと、少しのわがままと期待を抱いています。

 

恋愛続編としていたのにあれよあれよと長文の過去回帰的な内容になってしまいました。こういうところにも生き方の下手さがにじみ出ているような気がしてなりませんね、、、。

 

 

 

心にブレーキがかかるのは 恋愛編

前の彼女と別れてから「恋愛」に対して納得いかないことがある。

 

周りの他人から家族とは違う近さになれたのに、別れることになると他人以上に離れてしまうことだ。

 

「何言ってんの?」と自分でもツッコミをいれたくはなるが、納得いかないからしょうがない。

 

「恋愛」という男女の仲に対しての話は、性欲で片付けたり、機会がなかったり、はなから興味がなかったりと千差万別な価値観から逃れられない。

 

だからこそなのか、自分の納得がいく答えを持つ人にまだ出会えたことはない。

 

離れてしまわない確証が欲しいわけでもないが、離婚した後も連絡を取り合うような関係に惹かれたりもする。

 

一度でも法的根拠をお互いに交わしたにも関わらず、手放すことを受け入れるような関係に美しさすら感じてしまう。

 

そういえば「そもそも恋愛しなければいいのではないか?」と悩みの根本を消してしまえと提案してくれる人もいた。

 

僕が言って欲しいのはそうじゃない。しかし、文面にしてみると、なんてわがままなのだろう。

 

人を好きになる感情は人並みに持ち合わせているつもりだ。それを活かせないのが悩みの根本なのだと伝えたことは何度かある。共感は今のところ得られた記憶はない。

 

何が感情をこんなにも邪魔してくるのか。端的に言いあらわすならば、不安と妄想だろうか。

 

不安は先に言ったとおり離れてしまうことに対してだろう。

 

それを煽ってくるのがひどい妄想だ。

 

自分が好きかもしれないという相手の人となりから、様々な妄想をしてしまう。その妄想の結末は、大体が「さようなら」になる。

 

このことに対して「相手次第じゃないか!」と熱血に親身になって僕の妄想を否定し目覚めさせてくれようとした人がいた。

 

悪いけどそうは思えなかった。相手に期待して裏切られて正気を保てるだけのエネルギーを持ち合わせていないから。

 

いいや、そんなエネルギーを残さないほど相手に対して集中してしまうからかもしれない。

 

普段周囲の不特定多数に無意識のうちに気を配ってしまう性分。その無数の矛先を特定の個人に向けるというのは全集中なのだろう。

 

こんなところで自分が「恋愛」をしない理由や経過を書き連ねてみたら、何か気づきでもあるかと思ったけれど、さらに納得してしまった。

 

我ながらひどい価値観を形成してしまった。

 

この文章をみた誰かが首を縦なり横なり振ってくれたら、それはそれで一興かなって。

 

ただ、自分とは違った理由で「恋愛」しない人には背中でも叩きながら言ってやりたい。

 

好きだと思った感情は尊いけど、更新してこそだと思うよ!!知らんけど!!

 

 

〜追記〜

久しぶりの投稿、乱調な長文にお付き合いいただきありがとうございました。自分の過去と向き合うために言葉にして向き合う日々が多かったのですが、手書きで終えてしまうことがここ最近多くなりブログから離れていました。関係ないかもしれませんが、個人の発信に制限がなくなった現代です。自分の発した何かが誰かの時間や思考に入り込んでしまうことをひどく恐れていたのも離れていた理由でもあります。それでも、こんな人間もいるんだよって言い続けるしか、遠回りな自分の承認欲求を満たす手段として残されてないのだとわかりました。わがままな発信のひとつとして見過ごしていただけると幸いです。

多留年の果てに

自分が学生であることに希望も絶望も飲み込んだ3年目、つまりは大学6年目の夏。

 

相変わらず優しい友人の連絡で久しぶりの再会を果たしたのだが、自分だけが取り残されている感覚を会話のあちこちで実感した。

 

すでにバリバリの仕事人間に仕上がった友人を通してみる自分自身は、ずれ込んだ期間分もそのまま学生だった。

 

歳を重ねただけのやつ

 

数少ない心に刺さる言葉を友人はあえて言わなかったようだが、脳裏に浮かんでくる。

 

もし、このままの自分で居続けたのならこの関係を終わらせてしまうのではないか。

 

どんなに恥ずかしい人生を送ったとしても笑ってくれる友人が居なければ、ひとりで滑稽だと思うしかない。

 

きっかけはなんだっていい、行動するんだ。

 

そんな言葉をかけてくれた気がする。

 

お前はいいやつだ、だから気にかける。

 

優しい言葉をかけてくれる。

 

今年こそはと意気込む自分は何度目だろう。

 

友人に気をつかわせ続ける自分が嫌いになる。

 

なら、どうするか。

 

現状を友人と笑い話に出来るような未来を掴み取るしかないだろう。

 

ここ数日の感情を忘れないために、久しぶりの投稿で記録しよう。

お酒はひとりか、大勢とか。

先月に200を超えてコロナの影響で時間の空きができた人が多いのかなと思ってしまうこの頃です。

 

最近、アルバイトがなくフリーな1日の終わりに晩酌をするのにハマってしまう自分が居るのですが、

 

お酒はひとりで飲むべきか、誰かと飲むべきか

 

そんな悩みを新たに抱えてしまう自分になんだかなーっと、なりながらちびちびとすすっています。

 

最近はレモンチューハイを決まって飲むのですが、グラスに冷凍レモンを入れるかどうかで風味に差が生まれる驚きを誰かに伝えたいとふつふつとわいてしまっています。

 

晩酌に欠かせないのがおつまみですが、冷凍ブロッコリーをマヨネーズで炒めて粗挽き胡椒をまぶしたものと、成型肉のサイコロステーキが王道になりつつあります。

 

ミスジステーキか、成型肉のサイコロステーキかで店頭で悩んだりしてますが、安っぽく手軽に気兼ねなく大量に摂取できる成型肉が僕の好みです。

 

誰かとご飯を食べる機会が減ってくる年頃ながら、声をかけると誰かしら共にしてくれる今の環境にはありがたみを感じています。

 

そんな時はお酒はあくまでもその場のサブなんでしょう。

 

お酒の席という建前に本音で話せる空気を演出してくれる役割を果たしてくれているのかもしれません。

 

そういえば、健康増進法で店内での喫煙が禁止になってしまいました…。

 

愛煙家の僕からすればわざわざタバコを外に吸いに行くのに席を立つ、そんな動作がわずらわしく感じてしまいます。

 

誰もが不快な思いをせず過ごせる空間には誰かしらが何かを背負わないといけない

 

そんなことをもとめられるのは少しややこしい人間関係だけでいいような気がしてしまいます。

 

今まで真面目に自分の内側や境遇、体験した人間関係を語ってきた記事ばかりでしたが、今回は自分の割と日常的な内容になってしまいました。

 

ですが、こんなありきたりな日常からなにかを学ぼうという姿勢は変わりありませんし、当たり前の中にこそ生活の肝が隠されていると常々意識してます。

 

また新しい気づきがあり次第、普段の悩みが解決した際には自分の言葉でまとめられるように記事にしていきますので、よろしくお願いします。

 

久々の投稿で文体にまとまりがありませんが、ここまでお読みいただきありがとうございます。

 

では、また。

浸る時間、求めていたもの

お金、人間関係、進路に同時につまずいた。つまりは人生のお悩み詰め合わせセットが経験したことのないレベルで一度にやってきた。

 

そんな後に迎えた休学期間、復学してから合わせて2年間はひたすら本や映画なんかの物語に浸っていた。

 

ビジネス本の失敗談、恋愛物のすれ違い、人生観をくすぐってくれる作品、フィクションの中の人間模様、色んなジャンルの物語に浸りまくった。

 

「物語に浸る」というのは半身浴のように足を伸ばして座って腰あたりまでの水位に留まる感じだろうか。

 

どんな人生、物語にも必ずといっていいほどキーマンとキッカケが存在する。そうじゃないと決められた創作物の幅の中で物語が二転三転し、表現したい結末に向かわないからだろう。

 

最初の方は実話であれ創作話であれほとんど他人事のように一線引いたところから眺めているような感覚だった。

 

こんな人生だったらよかった、こんな出会いがあれば僕だって再起したはずだ、こんなにもがいていられるのは主人公だからだ。

 

まだ浸るというより水に足を踏み入れることなく眺めているだけだった。

 

いつからだろう、僕が浸るようになったのは。

 

あぁ、そうだ。表面的に自分の悩みや失敗、経験とは別ものだと思い込んでいる自分に気づけた頃からだ。

 

それぞれに違ったドラマがあって、それぞれの解釈があって、それぞれのキッカケやアプローチがあって、それぞれの結末がある。

 

自分を含めた全部が全部、バラバラな物語だと思い込んで観ている時は受け取る印象もそれぞれ区切られたものだった。

 

だけど、思い込みからバラバラに見えただけであって、共通点がいくつかあった。

 

ここに気づいた頃に、やっと浸れるようになり始めていた。

 

どんな人物にも周囲の人と影響しあって、出来事に対して選択や実行を繰り返しす。

 

道中、挫折や葛藤が混ざりながら主人公が納得する結末をつかめるかどうか。

 

作品の良し悪しは、その納得具合の心情をうまく表現出来ているかどうかじゃないかとも思えてくる。結末が予測通りや胸くそ悪かったり僕が納得してなくても良いものは良いとなる。

 

僕の人生にだって周囲の人がいて、挫折や葛藤はあった。後は自分が納得出来る結末を掴むために選択と実行をするだけじゃないか。

 

なら、主人公たちはどうやっているのだろうか、自分と似ている部分はないだろうか、理解できない部分はどうしてだろうか。

 

そんな風にどんどん浸っていけるようになっていた。

 

物語に憧れたり嫉妬したり区別していた頃よりずいぶんのめり込み方は変わっている。

 

きっと、いつか訪れる結末を満足できるものにするための準備なのかもしれない。

 

最初のような曇った見方で、大事なキッカケを見落とさないようにする。

 

この姿勢を求めていたのかもしれない。

失敗を生かすも殺すも自分次第

ひとりじゃ生きてられない自分を卒業するために悩みや感情や、自分の内側のことは自力でなんとかしてみようと考えてた頃が懐かしい。

 

ひとりじゃ生きてられない症候群 - 他人事な自分の人生(仮)

 

自分ひとりで何かしてみようと思い立ったのも、誰かと関わるとまた振り回されてしまう失敗から逃げていたんだろう。

 

そんな気づきを得たのも中学からの付き合いがある人から言われた言葉からだった。

 

「お前はもしかしたら誰よりも失敗して今にいたるかもしれない。だけど、その失敗から逃げ続けるならただ失敗しただけで終わるぞ。せっかく誰よりも失敗できたなら活かせ。」

 

振り返ってみても、今までの色んな選択を誰かからのきっかけで決定してきたようにおもえる。その結果には割と満足してることが多かった。

 

だけど自分ひとりで決断した時はどうだろう。

 

予測が甘かったり、思い込みだけだったり、理想と現実とのギャップに納得できず諦めてしまうことが多かった。そして後悔も多い。

 

ひとりで生きていくことの難しさも、誰かに巻き込まれて生きていく息苦しさも、両端を経験できた今だから自分のことがわかる。

 

"適度な距離感"で誰かと関わりながら生きていくのがお似合いみたいと。

 

ちょっとくらい強引な人に振り回されるくらいが自分にはちょうどいいのだと。

 

「適度」とか「ちょっとくらい」とか曖昧な表現に頼ってしまう線引きだけど、何度もその線引きを侵されてみないとわからなかったもので、割と自分の中でははっきりしている。

 

人間関係は難しいと言われるゆえんは曖昧な表現の程度が似た人と出会えない難しさとも言い換えられるのかもしれない。

 

自分の経験談からはっきり言えるのは、

 

己の線引きもわかってないヤツが誰かの曖昧な線引きを己のものと同じように扱うなよ

 

ってことだけ。

 

そんなヤツを見分けられるようになっただけでも失敗したかいはあったんだと思える。

 

そんな気づきの中で驚いたのは、振り回しているようにみえて他人の曖昧な線引きを探ることができる人もいることだった。

 

一見乱暴に映るけど、その振る舞いを許せる人許せない人と初手から見極めることも出来るうえに、今後の付き合いを考えることまで出来る人がいる。

 

人間関係で失敗した僕だからそんな映り方になる。失敗していなかったら乱暴な人だと思って終わりだったろう。

 

それからもうひとつ。

 

自分の失敗をきちんと誰かに聞いてもらうことで、取り返しのつく失敗だったと気づくこともできた。

 

これまでが自分ひとりだけの人生だったならば降りかかる失敗を直視することしか出来なかっただろう。誰かの視点を借りることは立ちなおるための必須条件だった。それから別の視点を借りられるように生きてきた自分にも感心した。

 

頼れる誰かがいることは自分の魅力なはずが、自分では全く気づいてやれてなかった。

 

失敗して、逃げて、悩んで、向き合って…

 

遠回りしたからこそわかることもあった。

 

失敗を経験として人生に還元しなければ、時間を無駄にしただけの失敗で終わってしまう。

 

時間は寿命で有限なもの。そう考えてタイトルを言い換えると

 

『失敗に生かされるも殺されるも自分次第』

 

になるのかもしれない。