タバコを吸ってる本当の理由
先日、『ひとりじゃ生きてられない症候群』を書き終えて確信したことがあった。
僕にとって喫煙というのは
「なくてもいいけど、あってもいいよね」
ってあいまいな感覚。
そんな感じでタバコを吸い続ける自分がなんとなく情けない部分が少なからずある。
何度も辞めようとしてダメでしたって記事を量産する典型的な禁煙失敗者。
色んな理由を並べてタバコを吸ってる自分を正当化しようとする自分を見ているようで、これまた我ながらすごく情けない。
そんなこんなで喫煙歴を更新し続ける中、先日の記事で思い出した出来事があった。
元バイト先の人たちと食事をした時、久しぶり再会だったからか話が盛り上がった。
そのとき僕はタバコを吸いたいとは思わなかった。
お店を変え、その中でひとりが「タバコいいですか?」って言葉を発した。
その後に「吸うでしょ?」と言われ「はい」と答える僕がいた。
僕は誰かと話している時にタバコを吸いたいとは思っていないが、喫煙者がいるのなら吸いたいと思ってしまう。
要するに、そこにいる誰か次第で喫煙の姿勢すら変える自分にいることに気づいた。
そして普段の喫煙のことを考えても、誰か次第な喫煙があるってことを再確認した。
それから、ひとりの時間を喫煙によって埋めつないでいるように感じはじめた。
これまでも何かに没頭するような趣味を見つけられなかった。
そして、特に今はひとりの時間を持て余している。
ひとりじゃ生きてられない僕は、ひとりの時間の過ごし方がわからない。
だから、タバコを吸うって簡単な方法で消費し続けるのかもしれない。
誰かに合わせてタバコを吸う。
時間を消費したくてタバコを吸う。
ニコチンより他人に依存してたんだろうな。
ひとりじゃ生きてられない症候群
小さい頃からたくさんの夢を描いてきた。そこだけは平凡な子供の1人だったなって思わせてくれる。
けど、中学生くらいかな。
描き始める夢は、どれも「誰かのためになる」ことを最終目的にし始めていた。
いつからか、常に周囲が笑顔であってくれることを1番に過ごすクセが染みついていた。
人間関係も恋愛も勉強も、すべてにおいて僕が頑張れば周りが笑顔になるなら頑張れるわくらいの感覚。
これに違和感を持ち始めたのは大学生になってからだったか。
就活のセミナーなんかで「主体性」「自主性」という言葉を筆頭に、「自分軸で考える」という視点にに出会ってからだろう。
それから僕が手にする情報には「自分がどう楽しむか」なんてニュアンスのものが溢れていた。
大学に進学するにあたって僕が笑顔にしたかった周囲はかなり減った。
「しょうがない人生そんなもんさ」
最初は一度離れた人たちでもまた会うときに僕を見て笑顔になってくれるように、新しく出会えた人を笑顔にできるように頑張ればいいじゃないかなんて考えてた。
一度離れた人たちとそんなに頻繁に会えるわけでも、新しい出会いに恵まれることも叶わなかった。
そしたら「周囲を笑顔にしたい」って気持ちがどんどんすり減っていく。僕の生き方を否定されていくような気になっていった。
いつも誰かのために頑張ってきたのに、その誰かはもう見当たらない。
自分のために生きるって言っても、今までしたことないからやり方がわからない。
僕はどうしたらいいんだろうか。
生き方に悩みながらズルズル今は大学5年生。
もう十分に悩んだ。
いまさらだけど、もう過去の自分を受け入れてやろうと覚悟出来るくらいにはなれた。
きっと僕は
「ひとりじゃ生きてられない症候群」なんだ。
もう十分に悩んだ、考えた。
生き方に正解なんてないのだろう。
だからこそ最適解を現状ごとに見つける必要があるのだろう。
もう十分に悩んだ、考えた、そして見つけた。
「ひとりじゃ生きてられない症候群」の僕は「主体性」を持って誰かに頼って生きていけばいい。
自分のためであって誰かのためになる、誰かのためであって自分のためになる。
そんな生き方しかできないなら、そんな生き方を全力でやってみようと思う。
大学辞めるとか考えたら、自分の欠点見えてきた
大学に行こうが行かまいが、課題をしようがしまいが、結局時間は流れて5年目の年度末を迎えている。
ここまで来ると「普通に卒業できる」というのは自分にはすごくちゃんとしたものに見えてくる。
試験や課題だけを上手に乗り越えていくことは僕には向いてなく、常に全力で勉強し続ける姿勢を保とうとして今年もまたガス欠状態。
教室内でスマホゲームをやったり、寝てたりするのに周囲が進級、卒業に支障もなくこなす姿に劣等感を抱かずにはいられなかった。
そんな教室を日に何個も移動しなきゃいけない毎日に、試験直前になって逃げたい気持ちを押さえ込むだけの気力もやる気も持ち合わせていなかった。
「あぁ、大学生向いてないのかな」
そんなことを思いながら今まで払って貰った学費や仕送りを計算したり、親や教授になんて言い訳しようとか、これからの身の振り方なんかを考えばかり。
そんな思考を止めてくれるのはアルバイトの時間だけになっている。
まあ、ここでもルールや基本を忠実に守りたい自分が遅くて使い物になっていないことに精神的にはくる。
それでもスピードと効率を追求している人たちに囲まれていると、自分の欠点が浮き彫りになってくるのがわかる。
そもそも気にしすぎなんだ。
作業をするしない、やったやってないくらいしか基準がないのに自分で勝手に色々付け加えてしまっている。
綺麗か汚いか、今か後か、やっていいのか悪いのか、道具は何を使うか、
自分勝手に過程を悩みすぎている。
あれ、これって大学に対してもこんな姿勢とってない?
課題をやったかやってないか、授業に出席するかしないか、試験に受かるか受からないか。
それなのに教室内の雰囲気がどうだとか、課題に対して向き合えてないとか、簡単に単位取れても嬉しくないとか。
どうでもいいことに頭使って疲れてるんだわ。
あと数日で進級するかしないかが決まってくる。
もうすることだけ考えてみよう。
余計なことは一旦忘れよう。
普通になりたい、それでもなれない
普通
この言葉に僕は小さい頃から悩まされてきた。
先生の言うことにチャチャを入れる小学生時代。わからないこと、納得出来ないことでも「はい、わかりました」と返事をすることが、親から求められる普通だった。
最近どこかで聞いた言葉に
少ない母数を理由に自分を否定しないで欲しい
と言うのがあった。
僕には小さい頃から言われ続けてきた「みんなと同じようにしなさい」という、普通を求める親からの説教がフラッシュバックした。
この時の僕はなんて言い返したっけ。素直に「はい、わかりました」とは言ってないはずだった。
みんなって誰だ、同じように出来ないから困ってるんじゃないか、周りのみんなは同じじゃないぞ、それなのに自分は誰と同じにすればいいの、
そんな思考のどれをも言い表す言葉を、あの頃の小さな僕は持っていなかっただろう。
何かを言い放ったその後に「はい、わかりました」を求めるように諭されたことだけは覚えている。
僕はいつだって親以上に普通になりたかったんだと思う。
怒る親より褒めてくれる親の方が好きなのが子どもらしい。
それでも、今でも普通にはなれてない。なれなかった。
僕が普通にしていると、みんなより劣ってしまう。
僕が頑張ると、みんなより良くなってしまう。
そんな絶妙なラインを見越して普通を演じる方がよっぽど普通じゃない。それにそんな技術を僕は持ち合わせることが出来なかった。
そんなこんなで普通になりたいと願い続けた僕は、23歳になっても普通になることは出来なかった。
年齢や学年、学校や環境が変わる度に尺度になるみんなも変わっていった。
いい子に囲まれたらいい子になって、賢い子に囲まれたら賢い子になって、タチの悪い子に囲まれたら…なんてことを続けてたら心が壊れてしまった。
悪い子にはなれなかったのが自分にとって普通であるはずなのに、いつもの癖でなろうとした時に自分の中の矛盾に耐えられなかったんだと、今ならわかる。
僕にとっては初めて自分の普通が見つけられて喜ぶべきところを、「はい、わかりました」と言えない自分だと勘違いしてしまったのだろう。
最近になってやっと勘違いをしていたのだと、気づけただけでも遠回りしたかいがあったんだって、自分を肯定しようとしている。
他人事だった自分の人生にもやっと、こんな風に自分優位な生き方が芽生えてきた。
このブログを始めたかいもあったのだろう。
『他人事な自分の人生(仮)』と命名した伏線をようやく回収できそうな気がしてワクワクしている。
わざわざ (仮) をつけたのもこの日のためだったのかもしれない。
普通になりたいと願ってた自分をようやく成仏してあげられる。
意識は高く夢は大きく…とは言いますが。
数ある記事の中からようこそ。さっそくですが、大学生5年目(留年1回、休学1年)になり、周りには歳下ばかりに囲まれる生活を送っている者です。
下記に僕のこれまでを綴ってみました。20数年が文字に起こしてみると「こんなに」なのか「これだけ」なのかの文字数になりました。
気になるところにお進みください。
大人になるということ
大人になると数えきれないほどの責任を持つ立場になっていくのでしょう。日常に愚痴をたれながも、その責任を自分の役目、世の中に存在する理由として納得出来ずとも諦めながらも生きていく目的として確認しながらゆくのでしよう。
僕にはまだわからない、知りたくない、教えてはもらえないこの大人の「普通」というものがたくさんあるのでしょう。
ただ、いつから意識を高く持つことを慎ましさがないとされ出来たのでしょうか。いつから夢を持つことは子供の間や少数の大人だけだと決め付けているのでしょう。
周りから与えられた責任や知らず知らずに当たり前だと思うようになった慎ましさは、人生を豊かなものに導いてくれるのでしょうか。
今の時代というものは理想を抱くのには向かない世の中なのでしょうか。
妥協すれば学校も仕事も食事も、生活の何もかもが安価でそれなりのモノが手に入る世の中のようです。
ですが、それでも手に入らないモノはまだ残されています。
人間の営みとして大きな役割を持つ感情、それこそ幸福と言った「心のありかた」は未だ技術では拘束できないモノでしょう。
おそらく僕が生きている間の技術発展でさえ、「心のありかた」には介入できずに残されるモノでしょう。そんなわずかに残されたモノを自らの手で作り上げることを放棄し、模範的な型に倣って押し込めてしまうのはいかがなことだろうか。
一致団結の時代から個人の時代へ。今度は村社会の時代へ変遷するとも言われています。言い換えれば、「右にならえ」から「好きにする」それから「好きなところに集まれ」のような感じでしょうか。
何にせよ人間史上もっとも自由への渇望を全面的に許される世の中になってきたのは疑う余地はないのです。
それでも世の中には明るい兆しはなかなか見えてこない。ならあとは何が足りないのか。
今の時代に足りないモノ
それこそ自分の手で自分の「心のありかた」を探る手立てを知らないところにあるのでしょう。
かつてなら個人の自由の捨て方やごまかし方は、先人たちが教えてくれました。周囲に合わせることで目立たない世渡りを歳上たちが教えてくれました。
日本は長い年月をかけて根性論や勤勉さのすごみ、集団でそれを守ることの効果を歴史に刻んできたことでしょう。
刻んできた全てを悪いと言いたい訳ではない。全てが正しいと疑うこともしなかった後世の人たち皆が悪かったのでしょう。昨今ではありがたいことに様々な文献から問題点や改善点、他国との比較なども交えながら今後のありかたを模索してくれる人々がいます。
僕個人が数千円数時間をかけて集めることのできた情報で、これから求められる生き方について考えるキッカケを手にすることができました。そのキッカケから僕は「心のありかた」を重視した生き方をしたいとも考えるようになりました。
前例がない時代を生きるために個人が最低限必要とされるモノは「自分で考え抜く」という力だと思うようになりました。
そんな僕がこれからどう生きたいか、今回改めて考え抜いてみようと思います。
どう生きてきたか
僕は現在2年のブランクを経て大学3年生になりました。2年のブランクは胸を張って考え抜いた時間ではありませんでした。
疑問や悩みを抱きながらも流されて生きてきた結果が、今の状況だというのは最近飲み込むことができたと自分の中で踏ん切りがついたところです。
中学高校生時代
偏差値オバケがチラホラいたり海外認定単位が取得できるような中高一貫校に中学受験をして入った頃から自分を振り返ろうと思います。
あの頃は「頑張れば報われる」と言った信念のもと色々と打ち込んでいた時期でした。それと英語に力を入れていた中学校に入りたいという願いを聞き入れてくれた両親には感謝していました。
年頃らしく恋愛に関心が向いたり、体育会系と文化系の部活に打ち込んだり、学生時代のほとんどをやりたいことで埋め尽くすような時間がほとんどでした。
「頑張れば報われる」という言葉を糧に何事にもがむしゃらに取り組んでいたように思います。
ここで「他人と比較し続ける自分」と対峙することになりました。
勉強も運動も音楽も恋愛も。何事においてもどんなに頑張っても敵わない相手がゴロゴロといる環境に疲れ切ってしまいました。
もちろん今なら比較して勝つか負けるかより、いくらでも他の要素に目を向ける余裕があります。
当時の僕にとっては勝てないことへ劣等感は「頑張れば報われる」を否定されたようなモノでした。
あらゆることに打ち込んでいたものをまたひとつ、またひとつと辞めていく我が子の姿を見て、いつのまにか親から「冷めた子」というレッテルを貼られるほどに何事にも頑張ることが出来なくなっていました。
高校生〜受験
そんな「冷めた子」になった僕は、好きだったものまでも手放すようになりました。英語もスポーツも音楽も恋人も。あらゆるものを手放した時に僕は自分という実態が掴めなくなる感覚に陥りました。
自分という実態を保つために行った行為が、最悪ですが自傷行為でした。痛みを感じる感覚だけが僕をこの世に結びつける最後の切り札のように当時は思っていました。
まあそんな行為も元恋人の涙もあってすぐにしなくはなりましたが、抜け殻のような日々からは抜け出すことが出来ませんでした。
毎日を消耗するためにアニメや漫画、本や音学を食い潰すように消費していました。
そんなこんなであっという間に大学受験の季節はやってきました。
高校生に終わりが来ることは僕にとってはありがたい期限だったと思います。なんせやりたいことがない分、やらないといけないことが湧いて出る受験では勉強のことだけ考えれば良かったのですから。
そうは言っても惰性で受けていた授業の内容などすぐに理解できるはずもなく、中学生内容からの復習から始まる訳です。
前述したとおり、偏差値オバケたちがうようよいる学校で「他人と比較し続ける自分」がまた現れてしまうわけです。
「頑張れば報われる」を否定されるような劣等感を毎日抱きながら通う最後の1年間は僕にとってあまり心地いい環境ではなかったです。
以前と違ったのはそんな環境を気にしていられないくらいやらないといけないことが溢れていたことでした。最後の模試では理系全科目偏差値的には30以上あげることができました。
ただ、成績を上げることにばかり目を向けていたために入りたい大学というのを考えていませんでした。
それに「冷めた子」というレッテルを貼り続けた親と受験での話はあまりすることがありませんでした。したいとも思わなかったのかもしれません。そのせいか滑り止めは必ず受かるところ、つまり将来的の良し悪しではなく親に文句をつけられない程度に低いところを出願しました。
この後志望校には受かりませんでした。
「冷めた子」には浪人をし続ける根気はないだろうと親も自分も感じ取って、そのまま滑り止めに進学することになりました。
大学入学〜大学3年生
大学では中学高校と周囲から感じた劣等感を感じることはありませんでした。単に比較される機会が減ったのもありますが、勉強では自分の普通がここでの秀才のように扱われるためでした。
すごく居心地が悪かった。
自分にとっての今までの普通が普通ではない環境。ここで初めて大学受験の本当の意味を知った気がしました。
自分の普通を維持、または向上させるために受験があったんだ…。
「頑張れば報われる」を結局挽回できなかった「他人と比較し続ける自分」は、仮面浪人するわけでもなく、1番でいつ続けることもせずにいました。
のらりくらりとバイトとサークルに打ち込み、勉強は必要最低限以下。
上位だった成績も気づけば大差ないほどになり、環境に溶けていく自分が嫌いでしょうがないけど考えないようにしていた時期でした。
そんな時ひょんなことから関係が始まった友人たちと持てるだけのお金を使い果たすほど遊び始めました。
酒を飲み、遠出をし、毎日やりたいことで現状を忘れようとしていたのかもしれません。
もしくは、今の環境から抜け出すためにわざと浪費をして考えないようにしていたのかもしれません。
ただ、これが2年のブランクを作った直接的な原因につながってしまいます。
金がつき、課題がたまり、さすがに遊びを断りたい気持ちが芽生え始めた頃、その友人の黒い面が出始めました。
小さな頼み事で呼び出したり、お金の貸し借りを始めたり、時には拘束するような行為など粘着質な面が日を追うごとにひどくなっていました。
大学3年生〜休学
結局その粘着質に耐えることが日々の重荷になり、留年することになります。
課題をしてても勉強をしていても付きまとうように僕の時間を奪ってくる感じでしょうか。
逃げれば良いいじゃん、と周りに相談して言われたことがありました。
「そんな簡単なことでは解決しない!」と決めつけたようにわかってもらえない自分を作りあげていたのかもしれません。
留年してからは「バイトと授業と粘着質の相手」の3つを軸に生活することが普通になっていきました。
この時の僕には、自分がありませんでした。「頑張れば報われる」ことを諦めて「他人と比較し続ける自分」を辞めていましたから。
粘着質な友人にとってそんな自分を持たない僕が都合が良かったのでしょう。
あれやこれや用事をつくってはその度にいちゃんもんをつけて、その埋め合わせと称した用事にしつこく連絡をしてくるようになりました。
不毛な関係の悪循環はズルズルと続き、3つの比率がどんどん粘着質の相手に偏り始めます。
そして、それが普通のように生活を送るようになっていきます。なぜ粘着質の相手が最優先事項になったのかは今でも理解出来ませんけど、思い出すと恐怖です。
「どこにも逃げ場がない、やばい、つかまる」なんて強迫観念に襲われることを皮切りに、学校にもバイトにもいけないほどバランスが崩れ切った関係に心身ともに限界を感じ、僕は実家へ逃げました。
頭の中でパチンと何かが弾けた気がして、立ち去ることだけを目的に実家へ。
真夜中の下道を何時間もかけて泣きながら車を走らせたこと、今でも思い出します。
そしてそのまま休学にいたります。
人生設計も人間関係も金銭感覚も、自分のありとあらゆるものが世の中の普通とは大きく外れているのだろうと思うしかありませんでした。
休学〜復学
学校側には療養という形で休学を申請し、自分は病み人なんだと改めて実感していました。
最初の数ヶ月は「自分はいつから正常ではなくなったのか」という疑問が頭から離れませんでした。あらゆる人間の悩みにまつわる書籍を読み漁る日々でした。読んでは考え、また読んでは考える生活を続けていました。時には河川敷で、時には公園で、時には街でと自分が欲しがっている答えを探し求める日々を長らく続けていました。
それから「悩みはもしかしたら人の中にあるのではないか」と思い始めて、接客業を始めたりもしました。
振り返ってみればほとんどの時間を「読むと考える」に当てていて、長いような短い休学期間だった気がします。
そして、復学にいたるまでに答えは見つかることはできませんでした。
けれど、そもそも始めから答えなんてないということに気づけたことが僕にとって価値ある過程でした。
「ほとんどの悩みには正解はない。その代わり、悩みに立ち向かった過程を自分自身が正解だったと思えるように生きていくしかない。」
頭の中に大きな衝撃と深く納得したような感覚があったことを今でも思い出します。
これまでの経験と休学に費やした時間から、僕は「心のありかた」という考えを手にすることができました。
ただ前置きしておきたいのが答えはないということです。ありとあらゆる情報にはやはり言葉という伝達手段しかありません。いくら同じ言葉で紡いだ情報であっても全てを伝えることは不可能だということを理解していただきたいです。
それでも僕が紡ぐ言葉が読んでくださった方の思考の発端にでもなれば幸いです。
心のありかた
「頑張れば報われる」信念を長いこと掲げながら体現して実感することも叶わなかったようです。それから粘着質な相手との関係に心身ともに疲弊するまで自分を追い込む姿勢の根底にもこれがあったような気がします。
「他人と比較し続ける自分」が生まれたそもそもの原因も「頑張れば報われる」にあるような気がしてきます。自分の頑張りと周囲の頑張りを自分勝手に数値化し、自身の効率の悪さを隠すように「頑張りの量」を増やすことでカバーし始めた年少期を思い出します。
色んな要因が偶然にも重なったことで自分の心身の状態を省みることよりも、頑張っている自分を周囲に認知してもらうことの方が大事だと、知らず知らずのうちに自然と身につけてきたのかもしれません。
振り返りや前置きが長ったらしくなってきましたが、この23歳という時期に生き方のシフトチェンジをしなくてはならなくなったのも好機のように感じます。
では、僕の気づきとこれからの生き方を「心のありかた」という軸でいくつかのトピックにまとめて紹介させてください。
選択と実行
朝起きてから寝るまでの間で「選択と実行」を大小問わず繰り返しおこなっているとされています。
服装、献立、それに伴う買い物やお出かけ。そこに向かうためのルートや手段。例をあげるとキリがありませんね。
この「選択と実行」というのは生活に欠かせない行為であり、実際に体を動かすのは本人である自分です。
それなのに僕は詳細な実態を把握していないことに気づきました。
「自分のことなのにわからない」
これまで人生に起こった出来事を悲劇だったと感じる自分がそもそもそうなるような「選択と実行」を繰り返してきたのではないか、と思うようにもなりました。
振り返ってみても、僕が悲劇とする出来事の引き金となった「選択と実行」はなんとなくといった曖昧な感覚的であったり、そういうものだからといった盲目的な諦めばかりだったか、という不明瞭な状態でした。
それから「どうして悲劇だったと感じているのか」についても考えてみたところ、共通しているのは「事実に満足していない」ということでした。
つまり、「なんとなく、そんなもん」と深く考えることもせずに「選択と実行」を繰り返して、それに伴った結果に「こんなはずじゃなかった」と嘆いていたのです。
悲劇というより怠惰ですよね。
怠惰を防ぐために
では、どうすれば怠惰な結果を防ぐことができるのかは、おのずと見えてきますね。
結果を導く前から満足できそうなものを選択していくしかないということです。
少しでも自分が考えて引き起こした結果なら責任の取りようもあるのです。
「こんなはずじゃなかった」は誰の責任なのかわからない、そもそも責任を取ろうともしない、それなのにいきなり責任を取らないといけなくなったのような心理的な流れがあります。
この流れ自体を断ち切らねばなりません。
とは言っても、ほとんど無意識な行為を強引に意識的にするにはどうしても時間と慣れが必要になってきます。
それにいきなり難しいことを受けつけないのが人という生き物です。
僕は「購入、飲食、移動」のような小さなことから「好き・嫌い」と「満足できる・できない」という軸を持つところから始めました。
お菓子や本を買うか買わないか、ジュースかコーヒーか、白飯か麺類か、徒歩か自転車か…。
最初はひとつひとつに時間をかけるしかありませんでした。そして、慣れてくると自分のパターンに気づいてきます。
・お菓子は買っても食べないことが多いし、食べた後に後悔することが多い
・雑誌は買っても読後に満足感が少ないし、読み返すこともないから買うより読みたいだけ
・ジュースは途中で飽きて嫌気がくるけど、コーラの赤だけは無性に飲みたくなる
・白飯か麺類かの選択自体いらないし、食べたい時に食べたいものを食べる
・雨の日以外は徒歩でも自転車でもいい、けどたまに電車に乗るとめちゃくちゃ酔う
前述したように無数の選択をこなすには処理速度を上げるしかありません。なので、どんどん更新していきながら選択肢を省くことも同時に行っていきます。
もちろん小さい事ばかりではありませんし、必ずしも前例がある事ばかりでもありません。
しかし、小さな事で積み上げてきた自分のパターンから予測することは出来るようになってきます。
そうなると、後悔しない率が以前とは桁違いになってきました。(意識していてもやはりゼロには出来ませんが、積み重なることしか予防はないと言い聞かせています)
要するに
自分の「心のありかた」を掴むためにまず必要なのは自分の「満足できるパターン」を知ることだと思います。
人間関係
自身の「心のありかた」を軸に生活していくにあたって、最も多くの難所を含むのが「人間関係」という人との繋がりではないでしょうか。
家族や恋人、先輩や後輩、先生や生徒、たくさんの人間関係の輪を行き来しながら生活していかねばなりません。
人間関係に自信のない人でも、誰とも関わらない生活を手に入れる方がいつの世も難しいことでしょう。
そして、今でも悩みの種なのが何が悪い関係になり、どう切っていくかということです。
以前の僕
以前の僕は「来るもの拒まず、去るもの追わず」の精神で親しみを持ってくれる人も物足りなさを指摘する人も半々くらいでした。
それでも親しみを持ってくれる人たちに囲まれて、人並み以上に誰かとの和の中に居られる自分を誇らしくもありました。
出会えた人たちが良い人だらけだったから、自分が何も警戒しなくても良い人しか寄せ付けない何かがあるのだと盲目的に信じ込んでいたようです。
そんな自分には自らその和から抜けることやまして自ら関係を断つなどの発想は微塵もありませんでした。
ですが、世の中にはやっぱり居たんですねって感じで僕は利用されていたと後々に気づく出来事に巻き込まれていました。
他人を利用しようと企む人を「来るもの拒まず」精神で対応していたらいつのまにか言いなりになっていたってのが個人的な感想です。
今でも関心してしまうぐらい上手に操られていました。
この一件で「縁を切る」ことの必要性を身をもって知ったわけで、ではどのタイミングで切れば良かったのかということに着目してみました。
縁を切るとは
粘着質な相手方との出会いから僕が限界を迎えるまでひと通り振り返ったところで、大事な部分が見えてきました。
価値観に違和感があったらまず一線引くことです。
この価値観というのは生活に欠かせない
「モノ、ヒト、お金」3つの「扱い方」が特に大切なポイントです。
どれかが合わなくてもおそらく人間関係長く続くことがないのでは、と考えるようになりました。
そして、この3つの価値観こそ人の内面を端的に見定めるためには欠かせない基準だと感じます。
自分の基準(モノサシ)とは
では、「扱い方」を他人をはかるための基準(モノサシ)として機能させるためには、まず自分のはどんなものなのかを明確に把握する必要があるでしょう。
そう思ったのも、ずっと僕にはその辺りがかなり曖昧ではっきりしたものがなかったからです。
人に利用された理由の発端がココにあるのではないかと、今さらながら推測しています。
はっきり決まっていないから、強く言われたり考える時間がない場合はなんとなく従うように、自然とそうなっていったのではないか。
それに相手の普通を擦り込まれるみたいなところもありました。
最初は「そんなもんか」なんてあまり考えず受け入れるのですが、徐々に気乗りしなかったり明らかに嫌だと感じる瞬間がやってきます。
「したくない」と伝えるのは当たり前でしょう。
問題はここから。
他の提案や指示が来るようになりました。
だけど、「したくないこと」の目盛りが見つかっても「こうしたい」という目盛りが僕のモノサシにはないわけです。
結果的に「したくないこと」は回避しているので、「それならいいか」なんて短絡的に判断を下してしまっていました。
こうやって振り返ると、意識的に判断すること(こうしたいという目盛り)が、ある種「自分を守る強さ」になるんだとわかりました。
モノは何であっても大事にあつかい"たい"
お金は自分が納得出来ること、誰かを幸せにできることに使い"たい"
ヒトは誰であっても敬意を持って接し"たい"
自分の「こうしたい」目盛りのついたモノサシを持つことで、他人がそれを否定してくるのならば自分にとってその相手は悪であり、縁を切っても仕方ないという目安や言い訳になります。
ただ、自分と違うことのほうが当たり前なのだから「みんな違ってみんな良い」というのが念頭になければなりません。
相違と否定は別物になりますから。
認識の変化
おのずと「こうしたい」とはっきりさせることへの認識もここで大きく変わることになります。
僕は小さい頃から、母親から主張することを否定されるような言動のもとで育ちました。
自分で自発的にすることよりも言われた通りに物事に取り組んで上手く行くこともあったせいか、母親に逆らってまで何かをすることはわがままなように思っていました。
(理想は自発的に行動して、自ら課題と改善を繰り返せる人になりたかったのですが)
もちろん、母親が愛情を持っているからこそ子供の行く末を案じて、そう接しているのだと最近理解出来るようにもなりました。
こういった気づきがそろったからか、「自分の中に母親が居ることはあっても僕自身が母親になることはできないよな」とやっと親子というもののありかたをつかめた気がします。
「自分を守る強さ」を持たないまま生き残れたことは奇跡みたいなモノで、これまで出会えた人たちがいかに優しさや思いやりを持った人たちだったのだろうと改めて感謝の気持ちが絶えなくなりました。
それから、誰かに振り回されて潰されることは必然だったのだろうと。
自分を被害者に仕立てることは簡単なことですが、そうなった経緯をひたすらに考えて、これまでより成長したと実感できる今に価値があるのだろうと、考えられるようにもなりました。
要するに
長くなりましたがまとめると、
・「モノ、お金、ヒト」の価値観を持つ
・「こうしたい」は自分を守る強さになる
自身の「心のありかた」を良好に保つためには、それを壊すものを「寄せ付けないこと」と「近寄らないこと」が大事なのでしょう。
これらがはっきりしてからやっと別の課題として「どうやって切っていくか」を身につけていか必要があるのだ、ともわかりました。
人間関係とは、課題の連鎖をいかに区切っていけるかを問われているような気にもなります。
続きはまた後日アップします。
何と戦っているのだろうか
連続投稿が唐突に終わりを迎えた昨日。
ここ数日頭の中にあった疑問がパンク寸前になり、言葉を浮かべようにも邪魔されていた。
「僕は何と戦っているのだろうか。」
僕は究極な平和主義だ。争いは嫌いだ。誰かが勝った負けたなんだと話題に上がるのも好きじゃない。
戦争なんかの国際的な揉め事にヘイトスピーチを主張したいわけではない。
それでも身近な人たちが争わずに、蹴落とされることもなく、笑って過ごせる毎日を作っていけたらななんて甘ったるい考えをぶら下げて生きている。
小さい時からずっとそう。争いには極力参加しない、交戦的なら降伏する、あえて標的にならないように自分を下げる。そんな生き方だった。
そんな僕は何と戦っているのだろうか。
今は誰かと競うことも誰かに憧れることもなく、ひとりの時間を謳歌している。
もしかすると
僕は孤独と戦っているのだろうか。
ひとりは今のところ最高だ。好きな時に好きなことを好きなようにやって、嫌なことはなるべく避けて生きている。
けど眠れなくなるほどの不安はどこからやってくるのかわからない。
周囲に人はいるから究極的な孤独ではない。
頼れる人も話し相手もいるから孤独とは言わせない。
それでも1日のほとんどはひとり。
平和主義には必ず誰かと共にいる時に感じることで、孤独主義になりたいわけではなかったのだろうか。
誰もいなければそもそも争いなどないのに。
僕は孤独と戦っているのか。
僕という存在を認知してくれる他者がいるのなら孤独にはならないのでは。
それでも孤独だと感じるのはなぜだろうか。
自分の内側を見つめすぎて外が見えなくなっているのだろうか。
何が見えなくなっているのだろうか。
外には何があったろうか。
考えるのも嫌になるくらいには孤独に蝕まれているのだろうか。
それかひとりな自分はかわいそうだと悲壮感に浸っているだけなのだろうか。
結局、僕は何と戦っているのだろうか。
生と死、それからなんだろ Day X
以前、鳥取旅行に男3人で出かけた際、お互いの死生観を話すことがあった。
その時話した僕の死生観。
死にたいと思うことはたやすい。思うほど簡単には死なせてくれない。自分の思う死が意外にも遠くて、まだその時ではないと跳ね返されるような感覚になる。
死にたいと思う時はただ視野が狭くなっているだけなのだろう。それか死ぬ気でみっともなくあらがう自分を体験することを怖がっているだけなのだろう。なら、まだ頑張っても死にはしない。死ぬにはまだ早い。
それから続きが浮かんできた。
生にしがみつくからこそ死に尊さを感じることが出来るのだろう。
人は大きく分けても苦痛な生と幸福な生しか味わうことしか出来ない。幾重にも折り重なる2つの生の最後にはっきりしない死があるだけ。
ただ、逃げ出したいと思う前には苦痛な生かはっきりしない死の2択になっていた。当時幸福な生を選び抜くだけの力が残っていなかった。そうするとはっきりしない死に対して魅力を感じてしまった自分がいた。
どうなるかわからないものにすがりたい。ギリギリなところまで来ていた気がする。ギリギリのギリギリまで来て魅力的な死を選びそうになった時、幸福な生を選ぶこともこの先どうなるかわからないじゃないかって思い始めた。
どうなるかわからないものにすがりたい。究極的な生か死かの選択になった時、すでに答えは決まっていた。最後の力を振り絞って当時の環境から逃げ出す、幸福な生を選ぼうとした。
ここから死ぬ気で幸福な生を求めてみよう。幸福な生を追い求める気持ちの前では死の存在などちっぽけで、無に等しいものだった。
それほどまでに幸福な生の存在は大きい。
今はこんな風な死生観になってきた。自分なりの死生観を考えてみるのはいかが?