タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

生と死、それからなんだろ Day X

以前、鳥取旅行に男3人で出かけた際、お互いの死生観を話すことがあった。

 

その時話した僕の死生観。

 

死にたいと思うことはたやすい。思うほど簡単には死なせてくれない。自分の思う死が意外にも遠くて、まだその時ではないと跳ね返されるような感覚になる。

 

死にたいと思う時はただ視野が狭くなっているだけなのだろう。それか死ぬ気でみっともなくあらがう自分を体験することを怖がっているだけなのだろう。なら、まだ頑張っても死にはしない。死ぬにはまだ早い。

 

それから続きが浮かんできた。

 

生にしがみつくからこそ死に尊さを感じることが出来るのだろう。

 

人は大きく分けても苦痛な生と幸福な生しか味わうことしか出来ない。幾重にも折り重なる2つの生の最後にはっきりしない死があるだけ。

 

ただ、逃げ出したいと思う前には苦痛な生かはっきりしない死の2択になっていた。当時幸福な生を選び抜くだけの力が残っていなかった。そうするとはっきりしない死に対して魅力を感じてしまった自分がいた。

 

どうなるかわからないものにすがりたい。ギリギリなところまで来ていた気がする。ギリギリのギリギリまで来て魅力的な死を選びそうになった時、幸福な生を選ぶこともこの先どうなるかわからないじゃないかって思い始めた。

 

どうなるかわからないものにすがりたい。究極的な生か死かの選択になった時、すでに答えは決まっていた。最後の力を振り絞って当時の環境から逃げ出す、幸福な生を選ぼうとした。

 

ここから死ぬ気で幸福な生を求めてみよう。幸福な生を追い求める気持ちの前では死の存在などちっぽけで、無に等しいものだった。

 

それほどまでに幸福な生の存在は大きい。

 

今はこんな風な死生観になってきた。自分なりの死生観を考えてみるのはいかが?