タバコ休めみたいな道中

休んでいる間も命を削るのはまるでタバコのよう

物と思い、それから選択 Day 19

ふと出てきたブランケットで寒くなった早朝や深夜を過ごし始めた。

 

「あれ、これ、元カノからもらったやつだ。」

 

大切だった思い出も今じゃ物のおまけにもなってない、していない自分を少し誇らしくも情けなくもなった。

 

買った時のシュチュエーションを思い出して懐かしくなったり、別れた後に捨てられなかった自分を女々しくも思う。

 

「物には罪はないから。」と割り切った感情を抱こうとしているのは、やっぱりこのブランケットが気に入っているからかもしれない。

 

捨てない言い訳に「物には罪はないから。」と自分に言い聞かせているようにも感じる。

 

元々「物と感情」や「物と思い出」みたいなつながりを考えることは昔からよくある。

 

それも悩みの種にまで僕の中で答えの出ていない癖のある問題のひとつと言っても過言ではない。

 

誰かにあげたもの、誰かからもらった、そんなふうに「物プラスα」な感覚が強かった。

 

そう気づけたのは「ミニマリスト」という人たちの、物を究極的に必要最低限かつ最大幸福を目指す感覚を知った時だった。

 

「貰ったものはその時点で所有権は自分にあるわけで、どう使おうがもう自分の勝手だと思う。」

 

これだけだとなんだか冷めたような感覚になるが、「自分にとって必要かどうか」の軸ならば確かにとも思う。

 

人からの善意を「いらないよ、そんなもん」と否定するわけではなくて、「気持ちだけ受け取る」という選択の結果らしい。

 

そんな風に考えたことは僕の中では一度もなかった。

 

貰ったものはせっかくなら使おう

思い出が詰まっているから取っておこう

 

そんなことをしてきたのだから捨てられないとか、物が増えて大変とかは後回しになっていたのだ。

 

今はなるべく物がない生活を目指しているが、なかなかうまくはいかない。

 

ただ物が少ないだけでは生活を維持するのが苦痛になるし、物がありすぎると視覚的に混雑してしまう。

 

今は自分にとって「ちょうどいい量」を模索しているんだろう。

 

洗濯機はないが、冷蔵庫はある。

 

本棚はないが、机はある。

 

イスはないが、バランスボールはある。

 

塩はあるが、砂糖はない。

 

こんな感じでなくても困らないところから削るようにはしている。そのおかげか頭の中に「なくてはならない物」の基準は変化している。

 

それから、今のご時世は安価で代用品は手に入る。「なくてもいいけどあったらいいかも」な物まで安いからという理由で買ってしまうわけだ。

 

一度部屋の中でじっくりと買う物を使う自分を想像してみることで、その衝動にあらがっている。

 

微かに想像できるくらいでは、毎日の生活の中からは簡単に省かれてしまう物だろう。

 

同線のひとつひとつまでしっかり考慮した物の選び方は、まだ慣れないが「物を抑える」という面では一役かってくれている。

 

今の課題は調味料や文房具にも、この姿勢で挑むにはどうしたらいいかだな。

 

それぞれに全くこだわりがないから、あれもこれも買ってしまう。

 

調味料は小さい物をこまめに買い替えるようにはしているが、納得は出来ていないのが実情。

 

ミニマリストさん、そこんところもっと発信してほしいっす。