自分のケツのことだけ考えろ Day 11
「出来ないことを人のせいにしない。」
「気が向かないことを周りのせいにしない。」
僕はこの類の言葉を何度言い渡されてきただろうか。そして、これらの説教は必ず正しいものだといつから思うようになってきたのだろう。
きっと気づかないうちに心にこびりついて、疑うことすら放棄したのだろう。
振り返ってみれば、身の回りで起こった問題の原因は自分の中にあるはずと、探すクセが付いていた。
物心がつく頃から両親は僕絡みの問題が起こると、必ず最初から原因が僕にあるのだと決めつけて話を進めていたように思う。
だから、歳を重ねるにつれて何が起きても、まずは自分を疑うことから始めるクセが根付いていたのだろう。
ただ、身の回りに起こる全ての事象に自分ひとりが影響を与えられるほど単純なものではない。
様々な条件が偶然に重なりあって起こることの方が多い。
複雑に絡み合った偶然のわかりえない原因を細かく紐解くより、誰かに原因があると決めつけて話を進めた方が楽だということ。
今ならそうなってしまうのも理解できる。
その片鱗は中高生の時に僕を困らせるほどに大きく膨れあがることになった。
元カノと喧嘩した時だったか、僕にはさっぱり原因がわからなかったことがあった。
元カノに原因を聞いてみたが、その行為自体が火に油を注ぐ結果になってしまった。近しい男女に経緯を話一緒に考えてもらっても、みな口を揃えて僕の何かが悪かったのだろうと。
みなよくはわからないけど、彼氏側に問題がある方が都合のいい状況だったのだろう。
結局この喧嘩の終止符はお互いの友人の仲裁もあって仲直りとなった。
これが僕の中に原因を探し始める起爆剤となったように思う。
この後、ことあるごとに自分の中にあるかないかもわからない原因を盲目的に探す機会が増える。
原因がある時はまだいい。言動なら見直したりできるし、気をつけても直らないものは許容してもらえるように努力できる。
問題なのはない時だ。いくら考えても、相談しても自分には何も原因がない。だが、自分に原因があると仮定してしまえば折り合いがついてしまう。
たいてい問題の原因は自分の外にあったり、まったく他の問題の幅寄せのようなものだったりするだろう。
本来の原因は直視出来ないところに隠れていることが多い。
特に集団の人間関係には、噂話が良い例だ。
根も葉もない言葉に人は耳を傾けがちだ。
それなのに弁解の余地はないのが厄介ものだ。
僕は長いこと、直面する問題の原因は必ず自分の中にあると考えて生きてきた。
本来無関係な自分の性格や言動を強引に原因だとしなくてはいけない気がし始めた。あれやこれや原因を探すより手っ取り早く問題が収束するからだ。
素直にこのことを周囲に話すと「なんで?どうして?」と言われることが多かったが、ついこないだまでそれが常だった。
話す機会があって、自分自身「なんでだろ?どうしてだっけ?」と盲目的に信仰してたものが崩れていく感覚を覚えてる。
簡単に、綺麗に言えば、他人を疑いたくなかったのだろうな。
もしかしたら「今回の問題は僕が悪かった!それでこれからどうしようか。」って思考が僕の基準になってたのかもしれない。
まあ、大きな分岐点といったら
「自分が悪くてもいいから次に進みたい」
って僕の基準と
「何もかも他人のせいにする」
って基準の人が出会ってしまったことだ。
出会いから1年ちょっとで僕の方が精神的にダウンしてしまった。相手がうまくいかないのは全て僕の責任になるから、知らない問題の原因扱いされるのが理解を超えて恐怖だった。
今では「自分に原因ないじゃん」って笑えるくらいにはなったし、絶対他責が基準の人もいるんだって勉強になったと思ってる。
自分のケツもふけないやつが他人のケツの面倒なんてみれるわけがないってことだ。