『何者』朝井リョウ を読んで
僕は「就活」という言葉の当事者になれず、留年休学と、2年も学生と社会の間で停滞してる。
そんな僕は「何者」なのか。何者になりたがっているのか。何者にならなれるのか。
そんなことを考えている時に、古本屋に並ぶ背表紙の中で『何者』という本の題名が目に留まった。少し前にニュースで取り上げられるほど話題作だったなと思い出し、頭の中と外の世界が偶然にもリンクしたのが、この本を読み始めたきっかけだった。
主人公を中心に登場人物たちの就活のある生活を覗き見している感覚だろう。
読み進めていくと、中盤に登場人物たちの言動にズレを感じた。
ありのままのキャラの個性が後から後から殻を破って出てくるような。
後半のセリフはまるで覗き見していた自分に視線を送りながら、諭すような印象も受けた。
そして、読後には変わろうとする主人公の姿が頭に残りながら、自分はどうなんだと本から伝わってくる気すらする。
こう感じるのは僕が長い間、自分を生きてなかったからなのだろう。
僕という命は生きながら、言動はどこか他人事のよう。
誰かの顔色伺いながら、直面する問題を解決することよりも怒られない、嫌われない、リスクを回避するように生きてきたのだろう。
相手を必ず考える行動で、自分を当事者ではなく被害者という枠に収まってしまっていた。
向き合うことや自ら考えて動くことで生じるリスクを背負うよりも、誰かの言われたようにやり仮にミスをしても指示された被害者だからと自分を守ってきたのだろう。
ダサい自分だって、残念な自分だって、自分。
そんな自分を自分が受け入れて、向き合ってあげなきゃ、誰も自分を生きてはくれない。
なら、今までの自分もこれからの自分も精一杯受け入れながら、生きるしかない。
後半のセリフの端々は、今の自分にはこんな風に伝わった。
小説の伝えたいことと自分が受け取ったものは違いがあるかもしれない。
それでも、僕にとっては大切な一冊になった。