女性の靴下を、つい、見てしまう。
すれ違ったり、遠目に見える異性の容姿を仲間内や自分の内で好みかどうか、なんて話し合いをつい、してしまうのが日常の一部にあるのでは。
人は見た目じゃない派の方々でも、どうしてあの人は幸せそうななんだと感じた経験はあるのではないか。
それも僕の意見では、人の外見からなるオーラに心動かされた瞬間だと言える。
ちまたの本や雑誌、ネットの記事で「結局人は見た目が9割」や「脳科学的には、視覚情報は40%前後」なんてものを良くも悪くも目にする。
そんな情報に踊らされるように笑顔の練習をしたことがあるのは、僕だけじゃないだろう。
そんな僕の異性への視線は、やはり変わっているのかもしれない。
つい、靴下を見てしまう。
もちろん表情や服装などにも目は向いているのだが、靴下が気になってしまうのだ。
ふと我にかえる度に、自分は変わってると思わずにはいられない。
ただ靴下を見るのにも、それなりの役目があると弁解しておきたい。
普段僕らが身にまとう服などは季節や流行に少なからず影響を受けている。
そして、靴下は露出する唯一の下着であると言うことだ。
見せパンなどの見せることを目的とした下着は今回は除いておく。
そうするとだ。
生活の中で異性の下着ともなると、家族、恋人と言った精神的に"ひとつ壁の向こう側"の住人同士が多少の恥ずかしさや慣れといったものを伴って拝めるものになる。
まして見ず知らずの他人に下着を視覚的に共有するのは、日本の文化としては卑下されるものだろう。
今も昔も下着と言うものはあまり他人に見せびらかす習慣は皆無だ。
だが靴下は下着という括りに存在しながらも、昔は足袋、今は靴下というあくまでも目に見える下着である。
ここを見逃すことも、見られるということを疎かにすることも、僕はもったいないと感じてくる。
ここまで書き進めてみると、自分がいかに変わってるかとは恥ずかしくなる。
靴下という、オシャレの控え選手のようなポジションにも価値があり、生活や自身の有り様が現れるのでないかと思えてくる。