すーの荷解き場

留年大学生すーです。自分の考えや気持ちを整理する荷解き場としてブログを書いています。

文字から離れると思考しなくなった

GWを予定でパンパンにした結果、習慣にしてきた読書や日記、Twitterやブログなどから離れた生活をしていた。

 

ふと我に返っても頭に何も浮かばない。

 

数ヶ月も続けた習慣も数日手をつけなかっただけでしなくなるものなんだと、そして文字に自分から触れようとしないと文字は自分に何もしてくれないのだとわかった気がする。

 

本を読み頭に溢れた文字を外に出すためにしてきた習慣たちは、溢れること自体が無くなれば必要なくなる習慣であるのだと。

 

ただ、一度心地よいと思った文字との触れ合いは無くなってしまうと何もしていない時間があっという間に過ぎてしまうほど空虚な感覚になる。

 

連休が明け、刻一刻と迫る休学終了までこのまま中身のない時間だけが過ぎていくのは今の僕には耐えられない。

 

今日からまた積み上がった本たちを眺めながら、読みたいと思った本をひたすらに手に取る習慣を改めて始めたい。

 

そのスタートとして今、空っぽな頭で残りカスのような文字をかき集めて書くこの記事は自己満でしかないのだろう。

 

それでも、僕が心地よく過ごすために文字にすがってでも自分を表現する。そうし続けることでしか自分らしく生きることの片鱗を見失ってしまうような気がする。

 

さてさて、文字が頭に溢れる生活にまた戻るとしますか。

 

 

5ヶ月間、本を読みまくって

僕は借金を抱え、友に裏切られ、学校にまともにいけず、バイトもいけず、とにかく何も手につかない状態で休学をし、実家に戻ってきた。

 

そんな時、すがるように「20代」「成功」「人生」「生き方」という題名の本を買い漁っていた。

 

人生のどん底な状態から這い上がるためには、どうしたらいいのか。なけなしのお金で即効性のある答えをかき集めようとした。

 

5ヶ月の時間をかけてたくさんの本を読んで、自分なりに答えを考えて、わかったことは1つだけ。

 

答えは本にはないってこと。

 

「そーか、そーか、そういうことなのか。」

 

追い求めてたものは手に入らなかったけど、そうわかった時はなんでかすごく気持ち良かった。

 

そして、この5ヶ月間で僕の思考は大きく変化した。

 

以前の僕は、今の状況になったことの原因のほとんどを周りの人や運のせいにして、自分は被害者であることを受け入れようとしていた。

 

自分が被害者である以上、身に起こった悲劇たちは外的な力によって偶然引き起こされたと答えを出しやすい。

 

しかし、この思考は、ただ問題の当事者であることから逃げるための言い訳にしかならないことに気づいた。

 

僕は初めて問題の当事者になろうと決意できた。

 

この決意のもと、過去を振り返ると見えてきたものがある。

 

僕の人生に対する姿勢が甘かったことだ。

 

お金に対しても、

ヒトに対しても、

そして何より、自分に対しても。

 

僕はよく自分のことなのに他人事のように感じてしまう、簡潔に言えば「冷めている」人間だった。

 

借金が膨らんでいくこと、対人関係がうまくいかないこと、進路に悩んでいること

 

僕自身の問題を傍観者のようにかわいそうとかもっと頑張れよなんて思ってた。

 

だから全ての問題の限界が来た時、急に自分が引きずり出されたように感じて何も動くことが出来なかった。

 

さっきまで僕はこの悲劇の物語を見てただけだったのにって。

 

僕は自分の人生を歩んでいなかった。

 

答えを探す道中の思考で、やっと見つけた自分の問題点。そして、これからはどう生きるかなんて答えは出たようなもの。

 

本になかった答え。

 

「え、なんだよ、気になるじゃん」って僕の話を見てくれている方は思うかもしれない。

 

ここで僕が答えを出してしまうと、たくさんの本のように"答えっぽく"なってしまう。

 

少し言葉について僕の考えを説明すると

 

「言葉は発した時点で受け手を必要とし、発した言葉は受け手の範囲でしか意味を受け取ることはできない。そして、出し手の意図とは関係なしに意味が変わってしまう危険が必ず伴うと考えなければならない。」

 

みたいに思っている。

 

僕が見つけた答えも言葉にすると、誰かの受け取れる範囲でしか意味が届かない。

 

答えっぽいことを言うのは簡単なんだけど、僕の役目じゃないなって思ってる。

 

もし、同じ世代の人が生きるための答えが欲しくて僕の記事を見てくれていたのなら、期待に添えなくてごめんなさい。

 

だけど、その欲求の満たし方なら伝えられる。

 

たくさんの本や雑誌、ネットの記事でたくさんの人生を覗いて見てほしい。

 

そこから自分だけの答えを探し続けてほしい。

 

僕の休学が終わるまであと4ヶ月。

 

答えが見つかって、頭がすごく軽くなったからか今めちゃくちゃ気持ち悪い。

 

今まで無意識のうちに溜め込んだ固定概念みたいなものが吹っ飛んだ。

 

空っぽな頭をぶら下げてこれからどうなるか。

 

楽しみでしょうがない。

 

僕はまだまだこれかだ。

『何者』朝井リョウ を読んで

僕は「就活」という言葉の当事者になれず、留年休学と、2年も学生と社会の間で停滞してる。

 

そんな僕は「何者」なのか。何者になりたがっているのか。何者にならなれるのか。

 

そんなことを考えている時に、古本屋に並ぶ背表紙の中で『何者』という本の題名が目に留まった。少し前にニュースで取り上げられるほど話題作だったなと思い出し、頭の中と外の世界が偶然にもリンクしたのが、この本を読み始めたきっかけだった。

 

主人公を中心に登場人物たちの就活のある生活を覗き見している感覚だろう。

 

読み進めていくと、中盤に登場人物たちの言動にズレを感じた。

 

ありのままのキャラの個性が後から後から殻を破って出てくるような。

 

後半のセリフはまるで覗き見していた自分に視線を送りながら、諭すような印象も受けた。

 

そして、読後には変わろうとする主人公の姿が頭に残りながら、自分はどうなんだと本から伝わってくる気すらする。

 

こう感じるのは僕が長い間、自分を生きてなかったからなのだろう。

 

僕という命は生きながら、言動はどこか他人事のよう。

 

誰かの顔色伺いながら、直面する問題を解決することよりも怒られない、嫌われない、リスクを回避するように生きてきたのだろう。

 

相手を必ず考える行動で、自分を当事者ではなく被害者という枠に収まってしまっていた。

 

向き合うことや自ら考えて動くことで生じるリスクを背負うよりも、誰かの言われたようにやり仮にミスをしても指示された被害者だからと自分を守ってきたのだろう。

 

ダサい自分だって、残念な自分だって、自分。

そんな自分を自分が受け入れて、向き合ってあげなきゃ、誰も自分を生きてはくれない。

なら、今までの自分もこれからの自分も精一杯受け入れながら、生きるしかない。

 

後半のセリフの端々は、今の自分にはこんな風に伝わった。

 

小説の伝えたいことと自分が受け取ったものは違いがあるかもしれない。

 

それでも、僕にとっては大切な一冊になった。

 

音のない夜に感じる贅沢

今の生活は大半、外に居たい。

 

朝と夜は何も考えず外でぼーっとするのが何気に習慣になっている。

 

この過ごし方が良いのか悪いのか、わかるのはずっと先のことだろうなんて頭はそれがわかるいつかに向いている。

 

特に夜のこの時間は何にも変えがたい過ごし方だろう。

 

キッチンの横の扉を開け、隣と境になってる塀に腰掛ける。

 

この時、耳には何も音は聞こえてこない。

 

この瞬間だけ、この世界には僕ひとりなんじゃないかと少し寂しさと楽しさが混じった気持ちになる。

 

だけど、すぐに音が聞こえてくる。

 

排水溝を流れる水、遠くで動く車やバイク、そして、自分の鼻をすする音が聞こえてくる。

 

目が暗闇に入る時に慣れようするように、耳にも静寂に慣れようと遠くの音を集めてくれる。

 

普段の生活の中で耳が慣れる感覚は夜の贅沢なことかもしれない。

 

贅沢は決してお金で買えることばかりではないのだとしみじみ感じる。

 

豊かになりすぎた生活の中で20円の差のついた缶コーヒーを悩んだ末に、高い方を買ってしまう贅沢とは雲泥の差なきがする。

 

当たり前の生活の中で、溢れる騒がしさから見落としているものに気づける贅沢な時間。

 

たとえ歳を重ね、時代が変わろうとも、忘れてはいけない事なのかもしれない。

女性の靴下を、つい、見てしまう。

すれ違ったり、遠目に見える異性の容姿を仲間内や自分の内で好みかどうか、なんて話し合いをつい、してしまうのが日常の一部にあるのでは。

 

人は見た目じゃない派の方々でも、どうしてあの人は幸せそうななんだと感じた経験はあるのではないか。

 

それも僕の意見では、人の外見からなるオーラに心動かされた瞬間だと言える。

 

ちまたの本や雑誌、ネットの記事で「結局人は見た目が9割」や「脳科学的には、視覚情報は40%前後」なんてものを良くも悪くも目にする。

 

そんな情報に踊らされるように笑顔の練習をしたことがあるのは、僕だけじゃないだろう。

 

そんな僕の異性への視線は、やはり変わっているのかもしれない。

 

つい、靴下を見てしまう。

 

もちろん表情や服装などにも目は向いているのだが、靴下が気になってしまうのだ。

 

ふと我にかえる度に、自分は変わってると思わずにはいられない。

 

ただ靴下を見るのにも、それなりの役目があると弁解しておきたい。

 

普段僕らが身にまとう服などは季節や流行に少なからず影響を受けている。

 

そして、靴下は露出する唯一の下着であると言うことだ。

 

見せパンなどの見せることを目的とした下着は今回は除いておく。

 

そうするとだ。

 

生活の中で異性の下着ともなると、家族、恋人と言った精神的に"ひとつ壁の向こう側"の住人同士が多少の恥ずかしさや慣れといったものを伴って拝めるものになる。

 

まして見ず知らずの他人に下着を視覚的に共有するのは、日本の文化としては卑下されるものだろう。

 

今も昔も下着と言うものはあまり他人に見せびらかす習慣は皆無だ。

 

だが靴下は下着という括りに存在しながらも、昔は足袋、今は靴下というあくまでも目に見える下着である。

 

ここを見逃すことも、見られるということを疎かにすることも、僕はもったいないと感じてくる。

 

ここまで書き進めてみると、自分がいかに変わってるかとは恥ずかしくなる。

 

靴下という、オシャレの控え選手のようなポジションにも価値があり、生活や自身の有り様が現れるのでないかと思えてくる。

 

 

 

 

桜と戯れる姿が美しいと感じた

お花見ラストスパートの土日。

 

桜の近くにはたくさんの人が集まって、それぞれの花見を楽しんでいた。

 

桜の淡いピンクと白の混ざった景色。

 

そこに入り込んだ人をとても美しいと感じた。

 

こうなると桜がきれいなのか、そこにいた人がきれいなのか曖昧になるのだが、そういう曖昧さがまた一層に美しいを増してくれるのかもしれない。

 

桜が咲き乱れる並木道の風景よりも、人が桜と戯れる姿が美しいと僕には見えるのだろう。

 

こんな視点は他のところにもあったなと振り返って納得できる。

 

カッコいいバイクに小柄なふわふわ女子が乗ってたらギャップを感じる。

 

ヤンキーな姉ちゃんがえびせん食ってたら親近感を覚える。

 

なんでもない料理をうまそうに食べる人がいればそんなに美味しいのかなとか、あの人今幸せそうだなとか思っちゃう。

 

僕の目には単体としてより、それを媒体にギャップや興味に価値があるように映るのだろう。

 

自分のクセって言うのには無意識なものが多いから、日常の普通を見つめ直すことで自分の知らない自分を見つける機会に繋げていきたい。

 

無意識を意識する。

 

こんなことの連続が自分の中で曖昧な僕らしいさをはっきりさせてくれるだろう。

 

世界に混じる事と目立つ事

ここで使う「世界」は宇宙とか地球とかスカールのでかい意味ではなくて、目に見える身近なもの。

 

本屋から出て人の流れに乗って僕は街の流れに混じっていた。ついさっきまで本屋にいる客から、街を移動する流れに溶け込むことは特に疑うこともない普通のこと。

 

自然と身につけた世界への混じり方。

 

そんな人混みの中でも自分が好きなブランドを身につけている人、ちょっと好みの異性、憧れるような容姿の人は目立って見える。

 

僕の見える世界では混じる事と目立つ事を無意識に繰り返しているのだろう。

 

これから新しい環境に飛び込むことが世の中の区切りで求められる時、僕はまた世界への混じり方を無意識に身につけるのかと思うと

 

人生っていかに目の前の世界と上手く混じる事なんじゃないかと思ってしまう。

 

それなのに無意識に混じってたはずの世界から目立って初めて周りから評価されたり、注目されたりする。

 

人間とはちょっとした矛盾のような生き物だ。

 

目立たないことを良しとして社会はあるのに、そんな社会では周りとの差を渇望の眼差しをおくる人がいる。

 

時代が昔だろうが、今だろうが、人の心なんていつまでも周りと違う自分を求めながら社会に混ざろうとしてるのだろう。

 

なら、自分が周りから何か言われるのは社会と混じってないから早く一緒に混じろうやって、同一色にしたいんだ、目立つと危ないよって言いたいんだろう。

 

はみ出して目立つ人をどうにかして、世界に混じらせてあげたい他人のおせっかいだってことかな。